最後の誕生日 2000_08_13

最後の誕生日 2000_08_13

 



なんだか知らないうちに「最後の誕生日」が過ぎた。
昼2時に目を覚ましてから、ゲームして、通信教育のテープを聴いて、秋葉原へ買い物に行き、「ご飯がご飯がススム君、おかわり!」を食し、銭湯に行って戻ってきたら誕生日は既に終わっていた。
「最後の」というのは、二十世紀最後のという意味もあるし、もう一つ重要な意味もある。
が、ここでは伏せておきたい。
インターネットの世界に年齢は関係ないと思っているから。

実をいうと、私の誕生日はいつもこうだ。
特別何も起こらない。
特別なことをしようとも思わない。
一つ誕生日だけではなく、私はあらゆるイベントに心が躍らないのだ。
クリスマスであれ、お正月であれ、ただそれが来るだけでウキウキするなんて事は経験したことがない。
どうしてだろうか?
私は自分の子供の頃を考えてみた。

私は子供の頃、お誕生会などを親にしてもらったことがない。
またしてもらいたいと思ったこともない、と記憶しているのだが、ひょっとするとそうではなかったかもという気もしてくる。
やはり子供の頃に、誕生日を快く思わない原因があるのだろうか。

我が家は共働きということもあって、特別お金に困っている訳ではなかったが、母親は忙しかった。
父親というのは楽なもので(公務員だったからだが)、毎日6時くらいになると帰ってくるのに、何一つ家事を手伝うこともなかったし、参観日にやってくるのも大抵は母親だった。
更に姑の面倒も母親が見るのだ。(父親の親なのに)
母親はいつも「疲れた」といってグッタリ寝そべっており、お誕生会をしてくれなどと言えるはずもなかった・・、ような気がする。(当時の自分がどう考えていたのか、自分でもよくわからない)
クラスメイトのお誕生会に呼ばれたのに、自分はみんなを呼べない、ということに寂しさを感じていたような記憶はある。

ひょっとすると、私が誕生日になんの感慨も抱かなくなったのは、自己防衛行為なのかもしれない。
お誕生会をして欲しいのにしてもらえない、あるいはして欲しいと言えない、という不満を不満と感じないように、自分の価値観の中から閉め出してしまったとは言えないだろうか。
後年、私は人間が決めた、言い方を変えれば自然状態では起こらない、全ての慣習に対していっさいの価値を否定するようになる。
それは自己の論理防衛とは言えないだろうか・・・。

最後の誕生日が過ぎてしまった深夜の2時。
私は誕生日を特別な日だと思える自分とそうでない自分、どちらが良いだろうかと考えている。

誕生日だ!何か特別なことをしよう!そう思える自分の方が人生を楽しめるのかもしれない。
しかし、私はそうはなれないし、それで良いと思っている。
もし、もう一度この世に生を受けたなら、やはり私は今の自分がいい。
過ぎ去りし日はもう追うまい。


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