会えないときが来るかもしれない

会えないときが来るかもしれない 2007_11_12

 

藤沢周平の『風の果て』という小説を読んだ。
NHKの木曜時代劇を見ていたらあまりに面白かったので、原作を読んでみたくなったのである。
ドラマはまだ丁度半分終わったところに過ぎないのだが、どうなるのか知りたくて、もう我慢できなかった。
久々に週末本を読んで過ごしたな。

この物語は江戸時代の固定化された身分制の中で、異例の出世を遂げたある青年とその仲間達の生涯を主人公の追憶という形で進めていく。
江戸時代の身分制に多少なりとも知識があると、これが非常に面白いのだ。
江戸時代というのは徳川政権を維持するために、あらゆる変化を禁じられた時代である。
生まれついての身分は原則として変わらない。
ただ二つだけ例外があって、剣術と学問だけは実力主義だった。
主人公達は同じ士分とはいえ、家禄も違えば、嫡子であるか否かといった環境も違うが、剣術道場で鍛練を積む分には仲間でいられたわけである。

しかし、いずれ皆大人になる。
それぞれがそれぞれ立場で生きねばならなくなるし、出世を望めばかつての仲間と戦わねばならぬ時も来るのである。
まあ、あまり本の紹介をするつもりもないので、この辺で説明はやめておく。
少々加えておくとすれば、TVドラマの方が友情を厚めに描いていて、原作は若干乾いた感じがするかな。

本の話はどうでもいい。
私は自分のことを考えていた。
いずれは学生時代の仲間達とも会えなくなる日が来るかもしれんな、などと考えずにはいられなかったのである。
人生上手くいっている人間といっていない人間では自ずと違ってくるモノなのだ。

私は仕事で名簿を作らされることがあるのだが(名簿というもの自体が私は大ッキライで苦痛なんだけど)、情報提供を求めるメールを送るだけで拒絶反応を示されることがある。
名簿に載せないで欲しいし、案内のメールすら送って欲しくないというのである。
かつて自分が所属した組織と縁を切りたいと思う人がいるのだ。
おそらくいまの境遇がかつての自分と比べて見劣りすると感じているんだろうな。
かつての仲間達と会うどころか、思い出すことすらイヤだ、と思う気持ちってのは分からなくもない。

私は最近、本気でゲーム仙人になりたい、とか思って自分の資産を計算してみることがある。
遊んで暮らしていたら収入がないからな。
しかし、ホントにゲーム仙人になったら、きっと昔の仲間達には会えないだろう。
よほど金を持っていれば別だけど、ちょっと社会的にまともじゃないからね。
真っ当に働いて、家庭を持っている連中とは距離を取りたくなるんじゃないかな。
厳格な身分制の中で藻掻いた人々とは比較するだに愚かなことだけども。

また逆に、若かりし頃が甘美に思えたりもしたな。
特に大学生の頃は、人付き合いのない私でも部活の連中とは一緒に遊んだ。
多少物持ちの違いを感じないでもなかったが、あんまり気にしてなかったわな。
ああいう時代が良かったと思わないでもない。

そんなことを、この『風の果て』を読みながら考えていた。


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