虐待の理由

虐待の理由 2008_01_07

 

実家に帰ると介護の現実を否応なく突きつけられる。
父親がボケてしまっていて、一人では排便も出来ないのである。
ボケてしまった原因がパーキンソン病にあるのか、アルツハイマーなのか、そんなことを考えてももはや意味はない。
誰かが介護しなければならないのだ。
今は母親がやってくれているが、母親が倒れたらどうするのだろうか?
考えるだけでぞっとする。

あれはイヤだな。
何がイヤって、簡易トイレがおいてあるのと同じ部屋で飯を食うのがイヤ。
トイレまで連れて行くのが面倒らしく、簡易トイレが食卓のすぐ近くに置いてあるのだ。
介護している人間からすると、汚いとかより楽な方が優先するらしい。
3日間一緒に暮らしているだけで、もう限界。
頼むからトイレに行ってくれと心から思った。

ところが、そんな私の思いなどには関わりなく尿意は催すらしい。
どうも漏らしたらいけない、という程度の意識は辛うじて残っているらしく、頻繁に母親を呼ぶ。
にもかかわらず母親がマメに水分を与えるのをみて、私は思わず「そんな飲ませたら、よけオシッコ出るがな」と言った。
言ってみて気づいたが、つまり虐待はこうして起こるのである。
これは自分で口に出してびっくりしたな。
飲ませたら、その分出るんだから、飲ませない方がいい。

食うのも同じで食ったらやはり出る。
こっちはもっとイヤだな。
さらには食って体重が増えると立たせるのに力がいる。
一時期食べ物を飲み込むことが出来なくて、胃に穴を空けて直接流し込んでいたのだが、その頃に比べて10キロ増えたそうである。
元に戻っただけとも言えるが、高齢の母親には大変な重労働である。
私は、食わせてはいけない、と思った。
だから虐待は起こるのだ。

ニュースなんかで世話をしない虐待の話なんかをきくと、酷いことをするなと思っていた。
しかし、自分が介護する立場になったら、これは違うな。
おそらく酷く普通の態度なんじゃないか。
だって世話をすればするほど、余計に大変になるんだよ。
これはきれい事じゃ済まないぜ。

今のところ、うちの母親はマメに父親の面倒をみている。
介護していない私が心配になって、施設に預けたらと勧めても、可哀想だからと拒否する。
自分の母親があんなに出来た人だとは思ってもいなかった。
私には到底無理だ。
私であれば今頃加害者としてニュースにでもなっているに違いない。


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