差しのべられる手

差しのべられる手 2004_01_04

 

私は景色を美しいとはあまり思わない。
景色を見るためにわざわざ出かけるなんてことはあり得ない。
よく晴れた日には私の勤めている建物の屋上からも富士山が見えたりするのだが、周りの人間が屋上へ見に行くのを私は冷ややかな眼差しで見送っている。
おそらく、私が極端なメンド臭がりだったり、あるいは親があまり遊びに連れて行ってくれなかったり、といった事情が私をそういう人間に仕立てたのであろうと思う。
人は自分を守るための自分をつくりあげる。


この正月は私も帰省した。
元旦には兄夫婦も遊びに来るのだが、そうすると当然姪もやってくることになる。

昨年生まれた二人目の姪は私を見ると怯えて泣くので触ることも出来ない。
しかし、9歳になる姪は割とよく懐いていて、私と遊んでくれるのである。

ところで、正月というのは暇なものである。
何もすることがない。
あまりに暇なので、電球でライトアップされた近所の公園を見に行こう、と言い出す輩が出た。
言い出しっぺが誰なのか覚えていないのだが、困った話である。
私は断固拒否した。

そうすると、姪が私の手を引いて、「おじちゃん行こーよー」というのである。
「おじちゃんが行かなきゃ面白くないよー」とまで言ってくれる。
普通の人間ならば折れるところだが、私は折れない。
彼女がどれほど手を引こうとも。
彼女が玄関から出て行く時に発した「おじちゃんも行こーよー」という叫びに後ろ髪を引かれながらも、私はついに拒否し抜いた。
これは苦しかったな。
ホントに悪い事したなと思った。

私を除く全員が戻ってきて、母親が言うことには、「あの子はホントにいい子やね。あそこまで言ってくれる子はそうそういない」というのである。
ああ、なるほど。
彼女は私のために手を差しのべてくれたのである。
彼女が差しのべた手は私を人の道に戻すためのものであった。

しかし、もうちょっと無理だ。
人間歳をとると、私はこういう人間です、という外郭が固まってしまうので、もう自分を変えられない。
私のことはもういい。

願わくば、彼女が健やかに成長されんことを。
ライトアップされた公園を見に行きたいと思う普通の人間に育った方がきっと楽だ。
私はあまり彼女に近づかない方がいいんだろう。


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