逆転の一手

逆転の一手 2001_08_05

 

私は小泉首相が好きであった。
私は変人贔屓なのである。
それに社会が変化を遂げるときには破壊が必要である、ということは歴史が物語っているところであり、このような男の登場は必然であるようにも思える。

しかし、冒頭の「好きであった」というのは、つまり過去形なのである。
これだけ世の中の人が小泉首相を支持し始めると、私は困ってしまう。
みんな彼の言っていることがどういうことかわかっているのか?と腹立たしく思うし、自分が烏合の衆の仲間入りしたようで面白くないだ。

こういう事態になってしまっては、アラの一つも探さずにはいられないのが人情というものである。
私は小泉首相の直面している問題に目を向けてみることにした。
すると、どうしても「靖国神社参拝問題」に行き着いてしまうのだった。
8月15日はもうすぐそこに迫っているのである。

ここでは宗教的な問題には触れないでおくとして、なぜ彼が参拝に拘るのか?ということを考えてみたい。
というのは、明らかに不利なのだ、ここに拘るのは。
国民の支持率が20〜30%ぐらいだったら、勝負にでても良い。
高年齢層へのアピールにより、プラスに働く可能性もある。
しかしながら、70〜80%という高い支持率でこんな冒険にでるのはおかしいのだ。
明らかにこの行為を支持する国民は70%を下回る。
彼は本当に無邪気な感情論から参拝しようとしているのだろうか?
だとすれば、余りにも愚かである。

一方で彼はいま「逆転の一手」を持っているとも言える。
この一手を打つための布石を打ってきたと考えられなくもない。

靖国神社に参拝したあと、おそらく会見を開くことになるだろう。
世界中のメディアが注目する会見になる。
その場で、アジア諸国に向けて思いっきり謝罪してみる、という手が残されているのだ。
「遺憾の意」みたいな曖昧な言葉でなく、自分の言葉で。
その上で、この参拝を戦没者に対する戦後のけじめ、と位置づけ、かねてより言われている無宗教の国立墓地構想をぶちあげる、としたらどうだろう。
はじめから参拝しない、という立場をとるより、遙かに大きなゲインを得ることが出来ると思うのだが・・・。

この手を打つために彼がここまで参拝すると言い張ってきたのであれば、その遠謀賛嘆すべしであるが・・・、さてどうか。
石原都知事と気脈を通じているといわれるあたりからは、この目はなさそうに思えるのだけど。

もっとも、アラを探そうと思って書き始めたのに「逆転の一手」を模索してしまうあたりは、好きであるということの本質をあらわしているようには思える。


<注意>
これはあくまで小泉首相の立場を考えて書いたに過ぎません。




<戦いすんで陽が暮れて 2001_08_15>
弱い・・・。


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