光源氏計画ではなく

光源氏計画ではなく 〜50で18(その4)〜 2003_08_12

 

50で18、私は常に主張してきた。
私が50歳の時に18歳の奥さんをもらうという意味である。
それはあくまで「やっぱ初々しいのがいいよね」ということであって、私が極端なロリコンであるということを言わんとしているのではない。
もちろん、それを否定するものでもないのだが。

ところで。
どうも世間では誤解しているようである、私の「50で18」を。
世間といっても、私の周囲だけの話なのだが。
私が「50で18」の話をすると大抵の人間が、「ああ、それ光源氏計画のことでしょ?」と思うらしい。
これは由々しき事態である。
私の「50で18」は「光源氏計画」とは全く違うのだ。
この点について、私はつまびらかにしなければならない。

まずはじめに、「光源氏計画」の意味が間違っている。
「光源氏計画」というのは、「小さい女の子を自分の好みの女性に育て上げる事」を指すのだが、どうも「自分のことを好きになるように育てる事」だと世間では考えられている節がある。
漫画『シティハンター』の中でそういう風に描いてあったので、それが広まってしまったのかも知れない。

まあ、言葉の意味はいいとして、どっちにしても失礼な話なのである。
それはどういう事かというと、「18歳の女の子をゲットするには、前もって仕込んでおかないと無理だよね」ということである。
つまりそれだけの魅力が私に無いと!
だから、「ああ、それ光源氏計画のことでしょ?」と思うのだ。

そこがいけない。
私が言っているのは、「自分が成長することによって、素晴らしい人間になろうよ」ということなのである。
その結果として「50で18」は副次的に達成されるに過ぎない。
今の自分がカッコ悪くても、今の自分がダメちんでも、それは「50で18」を否定する理由にはならないのだ。
私はこの点を強くアピールしたい!

まあ、もっとも、私がどれだけ主張しても、周囲の人間の頭の上には「?」マークが3ほど並んでいるのが常である。
これはもう実現してみせるしかない。
少なくとも人間には生きている限り可能性が与えられているのであり、そこへ至るまでの時間が長ければ長いほど可能性の幅は大きい。
人様ん家の縁側で遊んでいる可愛げなお子様を誘拐してこなくたって、それは達成できるかもしれないのである。


戻る