カキタイカキタイ病

カキタイカキタイ病 2001_12_30

 

私はカキタイカキタイ病に冒されていた。
このところ、文章を書きたくて書きたくてしょうがなかったのである。
書いている時間がもったいないので、出来るだけ書かないようにしようと抑えていたにもかかかわらず、振り返ってみると実にたくさん書いてしまったようだ。
実際多くの時間が費やされた。
どうしてこれほどまでに書きたいのだろうか?
時にそれは自らの信条に反するというのに。

たとえば、ニューヨークの自爆テロの時、私は色んなことが書きたかった。
しかしこれは書いてはならないことだったのである、私の美学からすれば。

だって、いま自分がこうして当たり前に生きているということが、アメリカが圧倒的に強いという歪んだパワーバランスの上に成り立っている以上、一言だって触れられるはずないじゃない!
テロが起こるということも、私たちが当たり前に生きているということも、源を同じくしているのである。

もし、一言でも触れてしまったならば、どうなるのか?
そこには問いかけが発生しているはずである。
じゃあ、自分はそれでいいの?という。

その問いかけにいったい誰が答えられようか?
答えるということは即ち、いま自分が当たり前に生きているということを放棄することを意味する。

そんなことが誰に出来ようか?
私に与えられた選択肢は一つしかなかったのである。
それは、沈黙だった。
黙して語らず、黙して書かず。
あたかも何事もなかったかのように振る舞う。
そうすれば少なくとも見せかけの美だけは守ることが出来たのだ。

だが、私は我慢できなかった。
私だけでなく、多くの人が我慢できなかったはずである。
なぜならば、私たちはこうして自分を表現する手段を手に入れてしまったのだから。
ひとたび表現する手段を手に入れてしまった以上、もう手放すことは出来ないのだ。
表現するということの、このなんと素晴らしいことか!

かつては一部の者だけに許されていたことを、いま私たちは誰もが行うことが出来る。
本当にいい時代に生まれてきた。
私は、こんなことをしている場合ではないと思いながらも、今しばらくはこの幸せに浸りたいのである。
たとえそれが病であったとしても、私は書きたいのだ。


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