私はいつも適当な記憶で書いている。 しかし、論語の原文はさすがにいい加減に書くわけにもいかないので、ネットで調べて書いた。 そこで私は見慣れた一文を発見したのである。 「學而不思則罔、思而不學則殆」 これは私が学生の頃受けていたゼミの教室にかけてあった掛け軸に書いてあった言葉である。 当時私は毎週この文字を眺めていた。 大学の研究室配属希望で私は敢えて一番人気のない研究室を第一希望にした。 特別何かを研究したかったわけではないし、成績が悪かったので競合して負けるのがイヤだったのである。 そのせいで全く興味のないゼミに毎週出なければならなかった。 好きこそものの上手なれ、というけども、興味がないから何の事やらさっぱりわからない。 私はぼーっとゼミが終わるのを待ったものである。 しかし、ぼーっとしていても何かを見なければならない。 人間は何かに焦点を合わせていないと落ち着かないのである。 ゼミに使う教室には掛け軸以外ほかに視点をおく場所がなかった。 だから私は「學而不思則罔、思而不學則殆」というこの文字をずっと眺めるハメになったのだ。 その当時からおそらくこの文は孔子の論語だろうな、とは思っていた。 漢文でこんなに説教じみた文面は孔子ぐらいしか思い当たらない。 だが、私は調べようとも思わなかった。 だって、大体意味わかるから。 「學而不思則罔」を読み下すと「学びて思わざれば即ち暗し」だから、学んでもそこから何も引き出せなければダメちんですよ、ということなんじゃないか。 「思而不學則殆」を読み下すと「思いて学ばざれば即ち危うし」だから、勉強しよっかなーといいつつ結局学ばないようなヤツはヤバイぜ、ということだろうと思っていた。 ところが、これはかなり違う。 ネット検索してみると、「学」というのは他人から教授されることで、「思」というのは自分で考えることなんだそうである。 特に後半の解釈はかなり不味いな。 自分で考えるだけで他人から教わろうとしない人間は危ないよ、という解釈が正しそうだ。 正に「思いて学ばざれば即ち危うし」である。 ただ、インターネットのおかげで「学」はラクになった。 大体何でもインターネットで調べることが出来る。 誰かが書いてくれるんだよな。 インターネットの世界には人に教えたい人が一杯いるらしい。 孔子もビックリですよ。 こういう時代にあっては「學而不思則罔」の方が問題になるかもしれないな。 |