不幸を知らない幸せ

不幸を知らない幸せ 2014_01_20

 

物事には理由がある。
ということは、何かしら物事を創作したら、創作者はその理由も考え出さなければならない。
しかしながら、ゲームやら、アニメやら、ライトノベルやらを見てると、私はいつも理由が弱いと思う。
そもそも私が、そういうジャンルの創作物が想定してない人間である、ということは、この際置いておく。

近頃の創作物において突拍子もない出来事が起こるときは、たいてい何かの不幸が切っ掛けになっているものだが、そんなもん理由にならない。
だって、世の中もっと不幸な人がいっぱいいるでしょ。
なんでその人たちには不思議な出来事が起きないのか、と私は思うのである。
たとえば。
先日、「猫物語」というライトノベル原作のアニメを観ていて、なんじゃそりゃ、と思った。
実は原作も読んだことあるから知ってるのだが、それでも「なんじゃそりゃ」と思わずにはいられない。
複雑な家庭環境で、育ての親に愛されなかったからといって、なぜその娘にだけ怪異が宿るのか、なぜ怪異を生み出すことが出来るのか、不思議で仕方がない。
もちろん、それ以外にもいろいろ説明はされるのだが、そんなものに説得力はないよ。
だって、実の親に虐待されて死ぬ子供もいるし、極端な話、中国残留孤児の皆さんとかどうだっただろうって私は思うのだ。
中には家族から憎まれてた人もいるんじゃないかな。
「猫物語」のDVDには特典で、作中数十秒だった件を40分かけて説明する独白がついているんだけど、あれなんかはアニメ創ってる連中も、理由を補強しなきゃって気持ちになったんだろうと想像する。

私の親の世代なんかだったら、今どきの創作物を見ても、間違いなく納得はしてくれないだろう。
みんな不幸を知ってたからね。
身内に戦争で亡くなった人も多かったし、兄弟が全員成人出来る家庭はまれだった。
お母さんも出産で亡くなることが多かったと聞く。
不幸はそこら中にいくらでもあった。

しかし作者が、こんな理由じゃみんな納得してくれないよな、と思ってしまったら、そこで創作はストップしてしまう。
若い層中心だから、このぐらいで納得してくれるだろうと思って書いて、実際にそこそこ受け入れられているから、我々は突拍子もない物語を堪能することが出来るのである。
日本が世界に誇るイマジネーションは、読者が、あるいは作者すらも不幸を知らないことに起因しているのだ。
実は不幸を知らないことそのものが幸せだって事なんじゃないか。


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