私は様々な「信念」を持って生きている。 信念を持っているという事は行動規範を持っているという事なので、ある意味においては楽である。 こう来たら、こうだ!と決まっているのだから。 しかし、信念を持つが故に苦しむ事もある。 いや、むしろ苦しむ事の方が多い。 私は日々自分の持つ信念に苦しめられているのだ。 例えば、記念写真。 私は記念写真が大嫌いである。 記念写真が悪いというよりは、記念写真を撮ろうと思う事が悪い。 記念写真を撮ろうと思った時点で人間は終わりであると私は思っている。 それは私の中で「信念」にまで高められているのだ。 記念写真を撮る事が大好きな方はここから先へは進まないか、もしくは、この信念の有効範囲が私の中だけであるという事を確認した上でお読み頂きたい。 なぜこんなにも記念写真が嫌いなのか?という事は私も考えてきた。 おそらくそれは、私が自分の父親の事をダメな奴だと思っていたからだろう。 子供の頃の私は6つ上の兄の影響を強く受け、精神年齢が非常に高かった。 ところが、おとっつぁんの言う事はどれも当たり前の事ばかりで、何も得るものがなかったのである。 彼の口から人生の苦悩や喜びを聴いた事がない。 もう中学生の段階で半ば軽蔑していた。 自分が今の歳になってみると、彼は既に枯れていたのだろう、と想像がつく。 私が物心付いたときには既に40歳に達していたのである、おとっつぁんは。 人間が生きてきて、自分の生きている意味を考えないはずがないからね。 そのことを隠していたのだとすれば、むしろ立派な事だというべきかもしれない。 そんな彼は記念写真を撮るのが大好きで、何かというと写真を撮りたがった。 その姿を見て、私は激しい嫌悪に駆られたものである。 その辺が私の記念写真嫌いの元凶になっているのだろう。 理由としてはあまり気持ちの良いものではない。 しかし今となっては、「記念写真を撮ってはならない」事への別の理由を私は持っている。 それが故にこれは「信念」なのである。 自分を守るためならば、いかなる論理構成を取る事も私は厭わない。 人間にとって意味のあるものは、このいま一瞬だけである。 今この瞬間を生きる事が大切なんだ!という事が大前提。 そうすると、「記念写真を撮る」を取るということは、未来へと過去を残しておくために今を潰している事になる。 そんな事があって良いはずがない。 写真を取ろうとする人間がアホなら、写る人間もアホである。 だいたい写真を撮ろうなどと言い出す人間は、今この瞬間を楽しめていないのだという事は、経験からも明らかであろう。(写真を撮る事にはじめから意識が向かっている) 本当に素晴らしい時を過ごしているならば、その記憶は自分の中に堆積し、次の瞬間の自分を形づくるはずである。 記念写真など必要ない。 時間が経てば忘れてしまう事など忘れてしまえばいいのだ。 ところが困った事には、普通の人はそんな事を考えてはいないのである。 もう生きていると記念写真を撮ろうとする人間に五万と出会うのだ。 私はいちいち「俺は記念写真は撮らない!撮られない!」とシャウトする羽目になる。 先日もMさんとマラソン大会をやったときも、全く関係ない同僚が記念写真を撮ろうと言い出して、私は拒絶しなければならなかった。 そうすると、すごーく空気が重くなるのである。 余計なお世話は止めて欲しい。 まあ、世の中にはこの手の手合いがそこら中にいるわけなのだが。 人が集まると記念写真を撮る事で自分の存在意義を確かめようとする輩がね。 彼らに悪気は全くないのである。 それでも、断れるときはまだいい。 断れない事が往々にしてある。 むしろ断れない事の方が多い。 そんなとき私は、なぜ信念を貫く事が出来ないんだ!と自分を責める事になるのである。 実はまた結婚式に出なければならない。 おそらく記念写真を撮られる羽目になるだろう。 おめでたい席で「俺は写らない!」などとシャウトするわけにもいくまい。 私はとても憂鬱なのである。 おそらく世界中を見渡しても、記念写真を撮る撮られるで、これほど頭を悩ましている人間も私をおいて他にはおるまいと、密かに自負している次第。 信念を持って生きるということは、誠にもって大変な事である。 |