ようやく漫画『鉄腕アトム』(秋田書店・全21巻)を手に入れることが出来た。 ずいぶん前から、一回読んでみたいと思っていたのだ。 というのも、一つ気になっていたことがあったからである。 私が「鉄腕アトム」を知りたいと思ったのは、職場でたまに見かける人がニュース番組に出ていたからである、アトムグッズ収集家として。 彼は非常によく耳にする言葉を発していた。 「鉄腕アトム」を読んで、ロボットの研究をしたいと思った、と。 実は私はこれがすごく不思議なのである。 なぜ「鉄腕アトム」を読んで、ロボットの研究をしたいと思うのか? 私のこの疑問を説明するためには、少々私が考えていたことを書いておかなければならない。 ここ何年か、ロボットをテーマにした映画なんかを見ていて私は思ったのである。 ロボットを描くということは、生きることを考える上で逃げ道を塞ぐことなんだな、と。 誰だって生きていれば、自分はなんのために生きているのか考える。 これはもう考えずにはいられないのだ。 しかし、私なんかだと、どこまで考えても結論は一つに収束せざるを得ない。 人間は生きるために生きているのだ、と。 生きることに意味などない。 生まれてきた以上、生きねばならんというだけのことなんじゃないか。 これはある種、思考の逃げ道なのかもしれない。 ところが、ロボットを主体にして考えてみると、これはちょっと話が違う。 だって、そもそも生きてないから。 自分はなんのために存在しているのか、と考えても、安易な答えは用意されていないのだ。 もっとも、実際には人間と同じように思考するロボット(人工知能)なんてのは、この世に存在しない。 つまり、ロボットを考えることは、人間を考えることに他ならないのではないか。 それも、逃げ道を塞いで考えることなんじゃないかと思うのである。 そう考えてみると、「鉄腕アトム」を読んでロボットの研究をしたいと思った,、というのには違和感がある。 ロボットじゃなくて人間を研究したいと思う方が自然なのではないか。 この疑問を解決するためには、自分も「鉄腕アトム」を読む必要があった。 古本屋で見つけたら買おうかな、と思っていたら、何年も経ってしまったのだが。 説明が長くなった。 本題に戻らなければならない。 「鉄腕アトム」を読んで私は、なるほど、これはロボットを研究したいと思うかもしれんなあ、と思った。 驚くほどノンキな漫画である。 ノンキなんて言葉と使うとファンの方に怒られてしまうかもしれないが、これは正直な感想だ。 なんでノンキに感じるのかというと、非常に重要な視点が落ちているからである。 この『鉄腕アトム』には、生命を人間が創造することが許されるのか、という視点がないのだ。 むしろビックリした。 ものすごく無邪気にロボットを作ってしまう。 アトムにお父さんとお母さんを作る話とか、ちょっと信じられない。 欧米人はロボットに生理的嫌悪感を抱く人が多いと聞いたことがあるけど、この辺が日本人との違いなのかな。 ロボットの人権とか差別の問題を取り扱う前に、まずそこを考えろよ、とか思った。 ロボットと人工知能が未分離のまま適当に話が進んでいくからいけないのかもしれないけど。(これは昔の漫画だから仕方ない) 自分の中では、『ブラックジャック』はバイブル的存在なんだけど、同じ手塚先生が書いたと思うと、すごく不思議だ。 「人間が生き物の生き死にを自由にしようなんておこがましいとは思わんかね」と言わせた本間丈太郎のセリフと矛盾するよ。(セリフは適当な記憶) やっぱり時代が違うのかな。 私たちは手塚先生の残した作品を読んで育った世代の漫画や映画、あるいは更にそれを見て育った世代の創作物を見てしまっているから。 人間の創作するのものに完全な創作などはなく、手塚先生の創作物に足したり引いたり改変したものが世の中にはいっぱいある。 それを私は既に知っている、少なくとも、知った気になっているのだ。 どうしても感じ方は違うよな。 50年前にリアルタイムで読んでいた人の感じ方をいま私が是非するなんてのは意味のないことだった。 <語句説明> 本間丈太郎:不発弾の爆発によってバラバラになった幼少のブラックジャックを助けた人。 <後日談 2007 _05_07> この話を書いた時点では、まだ9巻までしか読んでなかった。 あまりにも驚いて、つい書いてしまったのだが、印象が変わる可能性もあるので、全部読み終えるまで載せるのは控えることにした。 といいつつ、まだ18巻までしか読んでないけど。 今の漫画に比べると、字が圧倒的に多くて、読むのに時間がかかるのである。 この秋田書店が出している『鉄腕アトム』には、手塚先生が後になって挿入した解説らしきページがたくさん追加されている。 それを読むと、連載していた当時の手塚先生と私のイメージの手塚先生とは全く違う事が分かるな。 その当時は私が思っているような大家ではなかったらしい。 読者が喜ぶようなモノを狙って描いていたようである。 後に『火の鳥』なんかを書き始める手塚先生とは全然違うな。 手塚先生に意見する編集者って、どんだけ偉いねん!とか思った。 <後日談2 2007_05_10> やっと終わった。 |