人は美学に従って生きるものである。 もしその美学が他人の決めたものであれば、従わずに生きても構わない。 「従わない」という行為に対して、「他者から悪評価を受ける」という対応があるからである。 しかし、それが己の美学であれば、絶対に従わなければならない。 自分の美学に対しては、何人からの評価も受けないのだ。 己を律するのは己しかない。 私はエロ話をする、あるいは書く。 それは私の中で「エロ」が非常に大きい部分を占めているからである。 嫌な仕事があるときなどは、「今日はエロビデオ借りて帰るよ、絶対」とか思ってやり過ごすくらいだ。 にもかかわらず、それについて何も言わない、何も書かない、ということは私の美学では許されないことなのである。 ところが困ったことがある。 「セクハラ」という奴が存在するのだ。 女性の前でエロ話をするだけで「セクハラ」に該当してしまう。 普通誰だって、女性の前では自分がエロエロであるということは隠したい。 私だって隠したいのだが、であればこそ、私は明らかにしなければならない。 それが私の美学なのだ。 例えば、映画のDVDを沢山持っているという話をして、「映画好きだ」とだけ思われてはならない。 だって、映画のDVDに匹敵する数のエロDVDも持っているのである、私は。 ゲームの話をして「ゲーム好きだ」とだけ思われてはならない。 コンシューマーには及ばないものの、依然としてエロゲーも相当数をこなしているのである。 とはいえ、己の美学を貫かんとすれば、自らの存在すら危うくなってしまう。 大変困った事態になっているのだ。 一方「セクハラ」になるかどうかは、「何をしたか・何を言ったか」ではなく、「誰が言ったか」で決まるとも言われる。 大好きな人にエロ話を聞かされても特別気にならないが、嫌いな人に言われると不快で仕方ない、ということは実際にありそうな話だ。 ということはである。 私が魅力溢れたナイスガイになれば良いのではないか? そうすればエロ話も問題ないのではないか? もっとも残念なことに、いまの私にそれだけの魅力はない。 マジでセクハラ5秒前である。 |