美学 〜マジでセクハラ5秒前〜

美学 〜マジでセクハラ5秒前〜 2001_12_16

 

人は美学に従って生きるものである。
もしその美学が他人の決めたものであれば、従わずに生きても構わない。
「従わない」という行為に対して、「他者から悪評価を受ける」という対応があるからである。
しかし、それが己の美学であれば、絶対に従わなければならない。
自分の美学に対しては、何人からの評価も受けないのだ。
己を律するのは己しかない。

私はエロ話をする、あるいは書く。
それは私の中で「エロ」が非常に大きい部分を占めているからである。
嫌な仕事があるときなどは、「今日はエロビデオ借りて帰るよ、絶対」とか思ってやり過ごすくらいだ。
にもかかわらず、それについて何も言わない、何も書かない、ということは私の美学では許されないことなのである。

ところが困ったことがある。
「セクハラ」という奴が存在するのだ。
女性の前でエロ話をするだけで「セクハラ」に該当してしまう。
普通誰だって、女性の前では自分がエロエロであるということは隠したい。
私だって隠したいのだが、であればこそ、私は明らかにしなければならない。
それが私の美学なのだ。

例えば、映画のDVDを沢山持っているという話をして、「映画好きだ」とだけ思われてはならない。
だって、映画のDVDに匹敵する数のエロDVDも持っているのである、私は。
ゲームの話をして「ゲーム好きだ」とだけ思われてはならない。
コンシューマーには及ばないものの、依然としてエロゲーも相当数をこなしているのである。

とはいえ、己の美学を貫かんとすれば、自らの存在すら危うくなってしまう。
大変困った事態になっているのだ。

一方「セクハラ」になるかどうかは、「何をしたか・何を言ったか」ではなく、「誰が言ったか」で決まるとも言われる。
大好きな人にエロ話を聞かされても特別気にならないが、嫌いな人に言われると不快で仕方ない、ということは実際にありそうな話だ。

ということはである。
私が魅力溢れたナイスガイになれば良いのではないか?
そうすればエロ話も問題ないのではないか?

もっとも残念なことに、いまの私にそれだけの魅力はない。
マジでセクハラ5秒前である。




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