与板城

■与板城散策


夏も終わりと思い向かったところは新潟県の中越地方にある与板城。

その昔、大河ドラマの舞台として日本全国より脚光を浴びた地でもある。いや場所よりも「愛」の前立てを構えた兜の方が注目を集めたかもしれない。そんな直江兼続ゆかりの地でもある与板城へ向かった。

関越自動車道を使って東京から3時間30分ほどで到着するのが新潟県長岡市与板町。当日は曇り空であり、所々で雨が降るという不安定な天候。時折みせる夏の太陽の光を忘れさせてくれる恵みの雨であった。

まず訪れたのが「与板歴史民俗資料館(兼続お船ミュージアム)」。ここで城跡の情報を入手しようとしたのだが、空振りという結果であった。

そもそも市の民族資料館であったのであろう。しかしいつの間にか、大河ドラマの効果だろうか、名称が変更されたと推測される。おそらく原作者である故火坂氏もここを訪れたと想像できる。。

さて与板城跡である。与板市の市街地から南方面に位置する城山に築かれている。市街地北側を流れる信濃川の水運を利用し、中世から続く歴史ある町を治めた名将が地だ。

城跡はハイキングコースとして整備もされており、また駐車場も完備されているので車で訪ねても心配無用。多くの人が訪ねるからか城の入り口には案内マップもおいてある。城の見取り図など用意していなくても、大まかな縄張りであれば配布されているパンフレットで十分かもしれない。

「八坂神社」の鳥居" 「堀切」
「八坂神社」の鳥居 「堀切」

まず城の「実城(本郭)」を目指して歩み始めた。最初に目にするのは「八坂神社」の鳥居。ここをくぐりぬけ、階段を登ることとなる。しばらくすると竹藪の中に現れる案内版「竪堀」の表示。木々が鬱蒼としており、何がなんだか良く分からないのが残念。

さらに先へ進むと今度は「堀切」を確認できる。ここまでが与板城にある東側の郭だ。さらに石畳を歩き進んでゆくと「郭」の案内が目に入ってきた。地図を見てみるとわかるのだが、与板城の中でも比較的大きな郭である。「東郭」とでも呼ぶのだろう。南側斜面には腰郭が多く点在している、しかし残念なことに草木が生い茂り確認は出来ない。また北側の斜面を見下ろすと「おせん清水」とよばれる水辺がある。こちらも残念なことに近づくことは出来なかった。

「東郭」 「おせん清水」
「東郭」 「おせん清水」

西側へ向かうと今まで頭上を被っていた木々が無くなり、今までとは違った景色にでくわす。正面にある一段高い丘。あそこが「本郭」こと「実城」なのだろうと思い、歩みを早めたてむむかった。

「実城」 「実城」の土塁
「実城」 「実城」の土塁

「実城」の中心部には「城山稲荷神社」が祀られ、登ってきた北側には樹齢四〇〇年と言われる「城の一本杉」が訪れた者を迎え入れてくれる。「実城」の西側には「土塁」が盛られ、南側にある「二ノ郭」との境には、大きな「堀切」で仕切られている。なおここから東側へは眺望がよく、与板の町を俯瞰することができる。ベンチも用意されており、ハイキングコースの休憩どころだろう。

「二ノ郭」へ向かうのは「実城」から一端、大きな「堀切」の底へ下る必要がある。「二ノ郭」は細長く構築された郭である。北側と同様に南側にも「堀」で郭が仕切られている。

「実城」から「堀切」を挟んで「二ノ郭」 「二ノ郭」
「実城」から「堀切」を挟んで「二ノ郭」 「二ノ郭」

「三ノ郭」も「二ノ郭」と同様に細長く整形されている郭である。平成となった今では木々が郭中に茂っているが、直江氏が治めていた当時は違った景色であったのであろう。また「三ノ郭」の東側には「腰郭」が階段上にいくつもあるらい。しかし現状の木々の茂り方から、歩いて散策するのも、目で確かめることも出来ないのが残念だ。

さらに南側にある「郭」を目指す。途中で「竪堀」を通り山道を進むと大きな「堀切」に出くわす。名称は「大堀切(大空堀)」というらしい。その名の通り、「堀」とは思えない大きさに思える。おおよそ10メートルあると言われている。それを越えた先が「千人溜まり」という名が付けられた「郭」である。たしかに今までの「郭」と比較して大きく、また広々としているその地形は山城では珍しのではないだろうか。

「三ノ郭」から「大堀切」を眺める 「千人溜り」
「三ノ郭」から「大堀切」を眺める 「千人溜り」

ここで折り返し城を後にしたのであるが、帰路は「大手道」と呼ばれる経路を選んだ。ちょうど「実城」から北側への間道の様な雰囲気。途中に「門跡」と推測される地を通ることとなる。少々傾斜がきつく、雨上がりの地は滑りやすく注意が必要であった。

なおこの後、与板本城跡へと向かったのであるが、成長した木々が鬱蒼と生い茂っていたことで、遺構をほとんど確認することなく断念した。やはり時期が悪かった。山城へは晩秋から梅雨入り前に向かわねば成らないと、また痛感してしまう与板城散策であった。

 
■与板城小史

本与板城を居城としてた直江氏であったが、いつの時代に現在の与板城を築城し、また居城を移したのかは定かではない。一般的には直江景綱の時代であったと推測されている。 。天正六年に上杉謙信が急逝して起こった御館の乱。謙信の養子であった上杉景勝と上杉景虎が、上杉家を二分して争った内乱である。この時、与板城主であったのは直江信綱。信綱は上杉景勝に味方したため、上杉景虎方に付いた栃尾城の本庄秀綱が与板城を襲撃され窮地に陥った。これを救ったのが同じく景勝方となっていた斎藤朝信。斎藤氏の救援を受けた直江氏は本庄氏を撃退し城を守った。天正九年、直江信綱が春日山城内で殺害されるという事件が起きた。景勝は直江家に側近であった樋口兼続を入れ、与板城主に据えた。これ以後、与板城は兼続による統治されたが、慶長三年の会津への移封したことで廃城となった。
 
■情報

築城年:不明
所在地:新潟県長岡市与板町
関連武将:直江景綱、直江信綱、直江兼続



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