山中城

■山中城散策

国道一号線沿いにある山中城。築城年は定かでは無いですが、豊臣秀吉の北条攻めの際には歴史の表舞台に姿を現している山城です。今まで、何度か脇を通りながらも素通り。やっと訪れる事ができました。

箱根の坂を登り、芦ノ湖を後にして箱根峠を越えて、国道一号線を道に沿って静岡県へ。しばらくすると山中城跡を指し示す立て看板を目撃できるので、迷うこと無く現地へ到着できます。また駐車場もあるので停めるのに困ることはないでしょう。

城跡は国道一号線に分断される形で、南北に広がっている。ちなみに本丸は北側になっているとのことである。車は道路脇の休憩所と思われる場所へ駐車して、まずは南側から歩く事に。

なだらかな階段を上って行きくと、整備された芝生の地が開けてきます。最初の跡地は周りを植え木で囲っている御馬場跡になります。ここから遠く富士山を眺める事ができました。

畝堀 そこから先に行くと「出丸御馬場堀」という名がつけられた堀を渡ってゆくと、広い「岱崎出丸」になります。ここは天正一八(1590)年の小田原合戦の際に間宮豊後守以下全将兵が討ち死にした出丸と案内版に書かれてました。この西側には見張り台として曲輪がたてられていたそうです。その先には山中城最南端の「すり鉢曲輪」になっています。たしかに眺めれば周りが土塁に囲まれており、中央付近がへこんでおります。上からの眺めでは「すり鉢」を連想させられます。

またこの「出丸御馬場堀」や「すり鉢曲輪」の西側斜面には、「畝堀」という名の堀を目にすることがます。この山中城の特徴の一つでしょう。ちなみに天正一八年の山中城攻めにおいて、豊臣方の中村一氏の家臣であった渡辺官兵衛は、この付近から城内へ突入したそうです。

南側の城跡を一通り見学を終え、次に国道一号線をはさんで反対側の北側へと向かいました。

北側の城あとは典型的な山城の形をしており、本丸への道は登りとなっております。空堀と水堀が共存していた「三の丸堀」を左手に見ながら人一人が通れる道を歩いて行くと「田尻の池」に当たります。この池や「箱井戸」を水源とした水が、先ほど見てきた「三の丸堀」が水堀であることができた所以だそうです。またこの辺りは湿地帯だったとか。

ここから山道を進みまずは「西の丸」を目指すことに。西の丸は障子堀という名の堀で囲まれております。その先には櫓台があった「西櫓」が存在しており、その周囲にも障子堀に成っております。「西の丸」には当時を再現したと思われる「木の門」が拵えてあります。また少し高台に成っている「見張り台」が設置されており、ここらから富士山を眺める事が可能でした。ただし雲が掛かっていなければですけど。

「西の丸」から東に戻り、「二の丸橋」を渡った先が「二の丸」またの名称を「北条丸」というそうです。ここは山城にしては平面で広く感じる箇所でしょうか。他とは違った印象を受ける所です。夏なら緑の芝生が一面となっており、憩いの公園といった感じです。

さらに東側には、城の中心部の「本丸」が存在しています。しかし先ほどの「二の丸」と比べてしまうと、それほどの広さは感じられない場所です。ここを囲んでいる堀は、他とくらべると深かった様に思われます。現在では雑木林と成ってしまっている本丸の周囲を見渡すと堀は、やはり「畝堀」です。この本丸から南方向にやや視点を落とすと、そこには当時は兵糧庫や弾薬庫があったとされております。

ちなみに「本丸」の北側には「北の丸」があり、ここが山中城、最後の決戦が行われた地であるとの事です。ちなみに「北の丸」と「本丸」は堀を隔てて橋で接続されております。ここに限らずに曲輪毎は、基本的に掘を挟んでこの様に橋を用いていたのでしょう。また周りを木々で囲まれており、鬱蒼とした雰囲気を持ち合わせている感じがしました。

いまでは静かな散策できる地になっております。しかし一歩踏み込めば、戦国大名北条氏の最後の抵抗を、見る事が出来る城跡です。ここを半日で落とした豊臣軍、最後まで抵抗した北条軍の奮闘は、言葉では尽くせない激しさであったのでしょう。


 
■山中城小史

北条氏が西の隣国である駿河からの脅威に備え、築城した砦であった。いつ頃かは不明である。

この砦を大改修したのが、永禄一一(1568)年頃だったといわれている。この年に甲斐の武田信玄が、北条氏との攻守同盟を破棄して、さらには駿河へ侵攻。武田家からの侵攻の脅威があり、箱根の山を越えさせない城構えを築く必要があったのである。

次に大改修を行ったのが、中央の豊臣政権との間がこじれはじめた天正一五年頃からである。さらに軍事的な緊張が高まってきた天正一七(1589)年には、岱崎出丸を築き城の構えを増強した。

ご存じの通り、豊臣秀吉は北条征伐を決意する事になります。そして北条氏は豊臣軍の襲来に備え、小田原城に籠もって戦う決意をした。さらに西から箱根に出る東海道の要所でもあるこの城を、大軍が押し寄せてきても相手に出来る様に、大改修を行い、現在の様な城構えとなった。

築城は開戦間際まで続いたと言われている。天正一八(1590)年三月二十九日、山中城に籠もるは城主の松田康長をはじめとして四〇〇〇余りの将兵である。

それに対する攻城軍は羽柴秀次を総大将として、およそ七〇〇〇〇ほどの軍勢であった。攻城戦は圧倒的に攻める羽柴軍の有利に展開。四〇〇〇の守備兵も奮戦するが、数に勝る豊臣軍には勝てずに1日持たずして落城した。

城主松田康長以下四〇〇〇の兵達も討ち死にを遂げた。
 
■情報
所在地 :静岡県三島市
築城年 :永禄一一(1568)年頃?
関連武将:松田康長、渡辺官兵衛