■山中城小史
北条氏が西の隣国である駿河からの脅威に備え、築城した砦であった。いつ頃かは不明である。
この砦を大改修したのが、永禄一一(1568)年頃だったといわれている。この年に甲斐の武田信玄が、北条氏との攻守同盟を破棄して、さらには駿河へ侵攻。武田家からの侵攻の脅威があり、箱根の山を越えさせない城構えを築く必要があったのである。
次に大改修を行ったのが、中央の豊臣政権との間がこじれはじめた天正一五年頃からである。さらに軍事的な緊張が高まってきた天正一七(1589)年には、岱崎出丸を築き城の構えを増強した。
ご存じの通り、豊臣秀吉は北条征伐を決意する事になります。そして北条氏は豊臣軍の襲来に備え、小田原城に籠もって戦う決意をした。さらに西から箱根に出る東海道の要所でもあるこの城を、大軍が押し寄せてきても相手に出来る様に、大改修を行い、現在の様な城構えとなった。
築城は開戦間際まで続いたと言われている。天正一八(1590)年三月二十九日、山中城に籠もるは城主の松田康長をはじめとして四〇〇〇余りの将兵である。
それに対する攻城軍は羽柴秀次を総大将として、およそ七〇〇〇〇ほどの軍勢であった。攻城戦は圧倒的に攻める羽柴軍の有利に展開。四〇〇〇の守備兵も奮戦するが、数に勝る豊臣軍には勝てずに1日持たずして落城した。
城主松田康長以下四〇〇〇の兵達も討ち死にを遂げた。
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