谷戸城

■谷戸城散策
山梨県北杜市の谷戸城。年に数回はドライブで通る道すがら、「谷戸城跡」の案内版を目にすることがあっても、訪ねることは無かった。念願叶ったと言うべきか、遂に訪れることが出来た。

おおまかな場所は分かっていたが、少々迷いながら現場へ到着。

こんもりとした丘の様な小山となっているのが「谷戸城趾」だという。ちなみにその築城年については、かなり古いと伝えられており、遠く平安時代まで遡ることとなる。

まずは城趾の見学では無く、隣接している「谷戸城ふるさと歴史館」へ寄ってみた。こちらでは古代から近代にかけての北杜市周辺の歴史を紹介している。展示品や解説の多くは、土器や古代人の暮らしぶりである。それでも期待していた谷戸城に関しても、きちんと解説されていたので、前知識としてここで吸収しておいた。

余談であるが、ここから八ヶ岳がよく見える。

それでは城址へと向かうこととした。「谷戸城ふるさと歴史館」と谷戸城趾の間は、「空堀」によって仕切られている。ここから谷戸城散策の開始である。

まずは左周りに北側より攻めてみた。北側には僅かに「土塁」がのこり、また「帯郭」が東側へ回り込む様に、さらに「北空堀一」がそのまま続いている。そしてこの南側、つまり右手側は「四の郭」だという。うっそうと生い茂る木々の中を、東へと歩んで行った。

やがて視界が開けてくると、そこは「五の郭」であった。周囲を見渡すかぎり斜面が多く見受けられるが、ここの郭の辺りは平らに整地されていることが一見してわかる。これは谷戸城全般に言えることだが、お椀型の小山に築かれただけあって、どこも急な斜面に出くわすこととなる。そこを人工的に削り、整地して郭として機能させているのだろう。そしてその後ろを振り向くと、高い土塀と思える土塁を目の当たりにすることとなる。
谷戸城入り口 帯郭
谷戸城入り口 帯郭

土塁に囲まれた「二の郭」というわけだ。

「二の郭」へ向かうには「帯郭」を通り抜ける必要がある。やや曲線を描きながら郭を囲む土塁が両側より迫ってきている。

このまま「二の郭」へ行くことができるのであるが、そのまま南側へと周り、「南帯郭一」「南帯郭二」を通り抜けて「西帯郭」へと足を進めていった。この辺りに茂っている木々は桜の様だ。ということは開花された暁には、桜色に染まった古城を眺めることができるのだろう。時期が許せばドライブがてら来てみたい衝動に駆られてしまう。

さて「西帯郭」より斜面下を眺めると現在は私有地となっているが、西衣川より城側が「六の郭」ということだ。そのまま向かった先が、四囲を低い土塁が伸びている「四の郭」である。

「四の郭」について案内版によると、発掘調査の結果として大量の縄文式土器が出てきたそうだ。築城当時はどんな役割を担っていて備えられた郭であるのか。土塁が低く防御には適さず、「一の郭」などとは根本的に構造が異なるそうだ。また案内版からの引用になってしまうが、「途中で放棄された」かもしくは「何らかの理由で一時に築かれた」のか。今となっては謎である。
一の郭とその土塁 二の郭と四阿
一の郭とその土塁 二の郭と四阿

そろそろ城の中枢ともいうべき本郭、ここでは「一の郭」という名になっている地を目指してみることとした。

「西帯郭」より「二の郭」へと向かう。ここは今までの郭とは明らかに異なっていた。周囲をほぼ「土塁」と「空堀」に囲まれており、休憩ができる屋根付きベンチの四阿まで用意されている。なおこの「二の郭」は「三の郭」と繋がっており、この2つの郭でもって「一の郭」を囲んでいることとなる。なおこれらを囲んでいる「空堀」であるが、「薬研堀」および「箱堀」が混在しているという。

ちなみに「薬研堀」というのは、堀の底が「V字」に掘られた形状のことである。また「箱堀」というのは、堀の底が平面になっており、まるで箱の様に見えることから名付けられたと記憶している。誤っているかもしれないが、疑った人は調べてみて下さい。
堀 春の風景
春の風景

そして「三の郭」であるが、「二の郭」の延長上にある郭と考えることもできる。だが明らかに「二の郭」との違いがある。ほぼ傾斜しか無く、当時の姿は想像するしか無いのだが、堀による防備も弱めに見えてしまう。この両郭の入り口である虎口。「南虎口」は南側から登ってきたら、目前は「一の郭」の土塁が立ちはだかる。左右に広がる「二の郭」「三の郭」の空堀へと進むことができる様だ。

遂に到達した「一の郭」である。もちろん本郭であるこの地が、本城の中心となる郭である。周りは土塁で囲まれ、東および北西に2箇所の虎口が設けられている。東側は「二の郭」へ、北西側は「三の郭」へとそれぞれ通じている。

殺風景に見える城の中枢であるが、当時はなんらかの建造物があったと思われる。ここに櫓を建てて北に顔を向ければ、そこには雄大な八ヶ岳の姿を観ることができる絶好の地だ。今日でもそれを眺めることは出来る。白い雪を被った八ヶ岳もよいが、それよりも季節的には城跡全体を覆う様に植えられた桜の方が心を落ち着かせてくれそうだ。

さて帰りは、「搦手」である。他と同様に城へと続く道が整備されており、こちらから登ることも可能である。「搦手」は城の南西に位置しており、こちら側にも駐車城が用意されているので利用したい。



 
■谷戸城小史

その歴史は古く、平安時代まで遡る。常陸国那珂郡武田郷から源義清・清光親子が甲斐市川荘へ流罪となり、子の清光が甲斐源氏のはじまりと言われている。谷戸城はこの清光が居城とした城であり、最期も城中であったと「甲斐国志」には記されている。戦国時代になると、武田晴信による信濃攻略への足がかりとなる。「矢戸御陣所」と武田家臣であった駒井政武の日記「高白斎記」には記されている。また「天正壬午の乱」の際には、徳川家に対抗する相模北条氏が兵を入れたという記録が「甲斐国志」に記されている。
 
■情報

築城年:不明
別 名:高鳥屋城
所在地:山梨県北杜市大泉町谷戸
関連武将:武田信義



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