上原城

■上原城散策


上原城は長野県茅野市の永明寺山に築城された山城である。ここはかつて諏訪地方一帯を支配していた諏訪家の居城があった。中央自動車道を東京から向かうと、諏訪IC出口の手前で左手側に上原城趾を確認することができる。だがドライバーとしては位置を完全に把握していないと、運転中に見ることは難しい。

さて上原城へ向かうには、中央自動車道の諏訪IC出口より国道二〇号線へ出て茅野市方面へ走ると、上原城趾入り口の看板が目に入るので、指示に従えば辿り着く事が出来る。

山道を車で向かうと「上原城諏訪氏館跡」の大きな石碑が目に飛び込んで来る。ちょうど「板垣平」と今日では呼ばれている居館跡だ。ここで諏訪氏の主立った者が生活を行っていた所。ここからは城下町が一望できたことだろう。実際に館跡と思われる遺構も発見されたと、何かの書物で読んだ記憶がある。

「上原城趾」の石碑 物見岩
「上原城趾」の石碑 物見岩


ちなみに城郭はその背後、急峻な山の上に築かれている。なお「板垣平」より登山道があるので、ここより主郭を目指して歩くこともできる。今回は主郭まで車で移動した。

主郭の北側に駐車スペースがあるので、車で登城することも可能である。

ひとまず主郭を目指して道を歩んで行く。左手側は崖であるので注意が必要だ。右手側の「はなれ山」と呼ばれている小山を迂回する様に進む。やがて「はなれ山」が「堀切」で仕切られて「主郭」の土塁が現れる。東側からの攻撃を防ぐための備えなのだろうか。

この「主郭」へと向かう道すがら、足下を見ると「石仏」が何体もあることに気がつく。なんだか不気味であり、身震いしそうな情景だ。

やがて上原城趾のランドマークとも言える巨石である「物見岩」が現れる。当時はこの巨石の上に登り、城下へ進軍してくる敵兵を観察していたと思われる。ちなみにこの「物見岩」がるのが「二ノ郭」となる。

ここから「主郭」へと目指すのだが、「主郭」を構成している「土塁」が崩れやすい様で「土塁がくずれますので、ここから登らないで下さい」という案内版が。 きちんと整備されている通路を登って「主郭」へと向かった。

主郭 金比羅神社
主郭 金比羅神社


それほど広くは思えない「主郭」。この「主郭」を中心に据えて北側には「理昌院平」と呼ばれる郭の他にも、階段状にして幾つかの郭が存在している。そして南西側には「物見岩」のある「二ノ郭」、「三ノ郭」そして「腰郭」と連なっている。

さて「主郭」を後にして「三ノ郭」へと向かった。「三ノ郭」には「金比羅神社」が建立されていた。またここからの眺めは素晴らしい。眼下に見えるのは茅野の町並み。西側に目を向けると諏訪市が眺められる。これらは諏訪氏や武田氏の時代と比較すると、町並みは大きく変貌しているだろうが、山々の風景は変わっていないだろう。

「金比羅神社」で城巡りの無事を願い、「板垣平」へと有るか無いか分からない登山道を降った。一歩間違えれば、真っ逆さまに滑り堕ちそうな山道。
腰郭への途中 腰郭?
腰郭への途中 腰郭?


現在の上原城趾は松の木と、そして数多くの大小不揃いな岩が様々な所に転がっているのを感じながら、遂に「腰郭」らしきところへと到着。特に案内版などは無いのだが、おそらくここがそうだろうと勝手に判断。さてここから「板垣平」へ向かおうとしたのだが、ひとまず「本郭」へ戻ることとした。

戻りはだいぶ息切れしてしまい、日頃の運動不足が露見した結果となった。そして「理昌院平」を見学することをうっかり忘れて、上原城を後にしたのである。

 
■上原城小史

文正年間に諏訪信満により金比羅山の中腹に館が築かれ、諏訪氏の居城となり、諏訪地方を統治する場となる。山頂側には防戦に備え城が築かれた。天文一一(1542)年、甲斐武田氏の侵攻により上原城は落城。武田家重臣である板垣信方が諏訪郡代となり入城。以後の信濃侵攻への拠点となる。天文17(1548)年信方死後は長坂光堅が入城すし、諏訪郡代となる。同年、諏訪郡代の居館は上原城から高島城へと移った。上原城は天正一〇(1582)年、織田家の甲州攻めにより、以後は歴史の舞台より姿を消す。
 
■情報

築城年:文明元(1466)年 別 名:高鳥屋城
関連武将:諏訪頼重 板垣信方 所在地:茅野市ちの上原
アクセス
車:中央道諏訪IC 車15分



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