飛山城

■飛山城散策

その存在は鎌倉時代まで遡り、豊臣秀吉の命で破却されるまでおおよそ三〇〇年もの間、城として下野の地に君臨していた飛山城。 石垣もなく、もちろん天守などが存在しない「土」の城。 そんな中世の城跡を堪能しに、下野国(栃木県)の飛山城へと足を踏み入れた。

当日はあいにくの曇り空であり、時折雨が舞う天候。季節的に城跡巡りには適さないことは承知の上で、落雷だけは勘弁と思いながら歩き回ってみた。

隣接する「とびやま歴史体験館」の駐車場を利用することができる。車を利用する身からすれば安心であり、ありがたいことだ。 まずはこちらで城の歴史などを、あたまに入れてからというのが順路になるだおる。

さて城跡である。思っていたよりも広大な敷地を有する飛山城。見所といえば「土塁」と「堀」を組み合わせた縄張りである。 大雑把に縄張り図を見ると、北西から東南方面に曲輪が連続する梯郭式の縄張りとなっている。 まず、主郭となる曲輪(T〜V)があり、それを囲む様な曲輪(W、X)が築かれ、南側には一番大きな曲輪(Y)が存在している。それぞれの曲輪は「土塁」と「堀」で仕切られ独立している。そして東と南側には全体を囲む様にして、二重の「土塁」と「堀」が築かれ、この細長くできた空間が「L字型」の曲輪Zである。

空堀に架かる木橋と碑 土塁登り体験ができる土塁
空堀に架かる木橋と碑 土塁登り体験ができる土塁

それでは城の東側から散策することに。最初に迎えてくれるのが長大な「土塁」を背にした「堀」、そして「堀」に架かった木橋。 これは城の外側の曲輪となる「曲輪Z」の外周部にあたる。東面および南面に整備され「土塁」と「堀」で守りを固めている。 さらに全部で四つの櫓台が設けられ、外敵からの侵攻を防ぐ仕組みがある。 そして「木橋」が「堀」に架かっているのは、いざという時にはこれを城方が「木橋」を切り落とすことで、敵を城内へ直接防ぐ仕掛けだ。

なおこの「土塁」であるが、通常であれば文化財の保護が優先されることから、登ることは禁じられているはず。ましてや滑り台の様にして遊ぶなどは言語道断。しかしこちらでは「土塁登り体験」などが、日によってはできるとのことで一部が解放されている。ちびっ子が楽しみながら、城に触れあう機会が設けられている。

「曲輪Z」から奥へ入ると、そこは城の主郭部分へ近づくこととなる。なお飛山城では全部で7つの曲輪から構成されており、それぞれの名称を曲輪T、曲輪U、曲輪V・・・曲輪Zという呼び名が、手元の資料には記されている。 なお主郭はどこかというと、一番の北端である曲輪T、曲輪U、曲輪Vの3つが考えられる様だ。なぜならかなりこの3つの曲輪が、「土塁」と「堀」さらに各曲輪で守備されており、かなり厳重な構えであることが根拠だとか。

それでは城の中へ入り込んでいきます。まずは「枡形」の虎口から「土橋」を渡ると開かれた門がお出迎え。補足だが脇に大きく「スズメバチ注意」を促す立て看板があり、虫には細心の注意を。

城門 古代縦穴建物
城門 古代縦穴建物

飛山城では最大級となる曲輪Y。その大きさは縄張り図をみれば一目瞭然ではある。おおよそ200メートル四方の土地となる。 曲輪Yと各曲輪との間は土橋でつながれている。なお本曲輪には縦穴建物城郭として機能していた当時、この曲輪には発掘調査の結果として、建物があったことが確認されている。そのためか中世縦穴建物や、古代縦穴建物などが復元整備され、その姿をみること可能だ。 その広さや建物の存在から想像すると、城を守るための物資が保管されたり、多くの武者達が詰めていた曲輪であったのだろう。

つづいて「曲輪X」へと向かう。「曲輪T〜V」の東側に位置し、東側は「曲輪Z」で構成されている。今では 城跡全域にいえるが木々が多く生い茂り、昼間でも曇り空であれば薄暗い。特に夏の雨上がりには虫の存在が大変に不愉快である。事前に虫除けなどの防備を失念していたことを悔いてしまった。 この「曲輪X」の北側は眺望が開けており、遠くに北関東の山々をめにすることができる。

次に主郭となる曲輪T〜Vへ足を踏み入れた。曲輪Tと曲輪Uそして曲輪Vであるが、一見した限りでは一つの曲輪と言われても疑わないだろう。しかしよく観察すると、地面の起伏を確認することができ、案内に従って「土塁」と「堀」が存在していた形跡を発見できた。

曲輪Tのあたり 曲輪V
曲輪Tのあたり 曲輪V

なお、曲輪Tと曲輪Uの南面に位置する曲輪V。この南側に位置する曲輪Wとの間には「土塁」と「堀」がはっきりのその姿を確認できる。曲輪Wには「将兵の詰め所」と呼ばれる小屋が再現されている。そして薄暗い木々が生い茂る中に建つ小屋は、不気味な静けさも加わり、何やら特別な雰囲気を味合わせてくれる。曲輪Wとの間は大きな「土塁」と「堀」とで隔てられている。

ちなみに、あいにくの天候ながらここまで歩けていたのは、見学路がきちんと整備されているからだ。また小まめに雑草なども整備されており、当日もその姿を確認できた。城巡りの装備がなくとも、こうして整備されている城趾であれば季節関係なく楽しめるだろうが、やはり夏場は避けるのが無難かもしれない。

曲輪Yのあたり 5号堀
曲輪Yのあたり 5号堀

最期に外周の二重にできた「土塁」と「堀」。そしてその空間を利用してできた曲輪Z。 南北に300メートルほど、東西に200メートルほどの長さを誇る曲輪。その内側に存在している「堀」を、見所として挙げておきたい。一直線に伸びる「堀」の姿はなかなか見られるものではない。多少は木々が邪魔をして、その景観を損なってはいるが、その規模を実感するには十分な姿が見られる。

また一番外側にある「土塁」と「堀」であるが、一番復元と整備に力が入れられている様で、美しく見栄えのよい景観である。また櫓台跡にしてもその痕跡を見つけるのには苦労しないだろう。ここんい弓兵が配置され、城に攻めかかるであろう兵に対し、一斉に弓が放たれることを想像すると、頑強な土の城であったことが見て取れる。

ちなみに「とびやま歴史体験館」の入館料は無料であり、日によってはボランティアによるガイドが催される。土日祝日で時間限定ではあるが、聞いて回ってみたいと思ってしまった。

 
■飛山城小史

鎌倉時代の永仁年間に芳賀高敏により飛山城は築かれる。南北朝時代には、足利尊氏方へ組した宇都宮氏綱を補佐するも、南朝方についた春日氏の軍勢に攻められ一度は落城するも、芳賀氏は城を奪い返した。戦国時代にはいると関東地方も例外なく戦乱となり、常陸佐竹氏による宇都宮城攻略のための前線基地として飛山城は機能していた。天正一八(1590)年、豊臣秀吉による小田原征伐により北条氏が滅亡すると、関東各地に点在している無数の城に対して破却命令が下される。これにより飛山城は廃城となった。
 
■情報

築城年:永仁年間
所在地:栃木県宇都宮市竹下町
主な遺構:土塁、堀
関連武将:芳賀鷹家
アクセス:東北自動車宇都宮ICから30分



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