高山城

■高山城散策

飛騨は高山の地にも立派な城があったとか。当時は日本屈指の山城といわれていたそうで,「天下に三指と数えられる名城」と飛騨高山を紹介するパンフレットにも書かれてました。今回はそんな高山城を巡ってみました。

現地へは中央自動車道を使い,松本から国道158号で安房トンネルを経由する,東京方面からでは一般的なルートを利用。

現在の高山城は城山公園となっております。今となってはそこに城が存在していたことも忘れてしまいそう。それもそのはず,高山城はもうかれこれ三〇〇年以上も前の,元禄八(1695)年にすでに破却されていたのです。

さて高山城です。

わかりやすそうですが,実際に現地に行ってみると地理感覚が無かった為か,たどり着くのに一苦労。そもそも車を駐車する場所が遠すぎたのが原因かもしれませんけど。下調べが足りなかった様で,城跡の二の丸あたりには公園としての駐車城が用意されていたのだから。

現在は児童公園となっている二の丸。遊具もあるが公園の真ん中には,騎乗の金森長近像が建てられていた。やはり公園といえども城跡である事を,きちんと主張しているのであろうか。

二の丸からは,とりあえず本丸を目指して山を登ることにした。

まず行き着いたのが「搦め手」とかかれた石碑。登ってきた方角が正面でなかった事をここで初めて知ることになった。そこは左右に道が分かれていたが,左に進みさらに上を目指した。

しばらく坂を登ってゆくと,小さいながら平地があらわれた。ここには立て看板があり,そこには「中段屋形」と案内されていた。ここには搦め手口から登ってきて,最初に行き着く建物があったのだろう。台所かそれとも・・・役割までは調べていませんけどね。

そこからさらに上に登ると,さきほどの「中段屋形」を見下ろすかたちで,「東北曲輪」が目の前にあった。その名の通りだが曲輪があったところなのでしょう。となるとここは方角的には城の東北になるということかと,一人で勝手に納得をしていました。

その先にはとうとう「本丸跡」となります。とおもったらそこも曲輪の様でした。「搦め手の間」があり,その周りを「太鼓櫓」などで囲んでいたと想像できます。

やはり本丸とはこうあるべきだと,訴える様にして石垣が目前にあらわれ,そこが目指す「本丸跡」だそうです。 一歩一歩と石段を登ると,今までよりも一段と広い平地になっています。ベンチもあり雨上がりでなければ,ここで一息入れたくなりそう。さらに「高山城の復元想定図」という本丸の復元図が用意されており,どんな建物があったのかというのを想像することができます。

一通り見回ったら下山。同じルートは通らずにもう一方を選択。

「南の丸出丸」という高山城の出丸を,ちょっと寄り道して先を急いだ。すると今までにない木々に囲まれ,雑草が生い茂った「号砲平」にでる。ここにも屋根付きベンチがある。しかし虫という大敵があり,さらに水分への欲求が勝り,そのまままっすぐ下山の道を急いだ。

当日は雨上がりということもあり,かなりの湿気に難渋してしまった。後から来た中年の夫婦に追いつかれ,追い抜かれ,さらには見失うというほどの歩く速度の差。朝が早かったので,その疲れが出ただけ・・・かな。

山城へ登る時にはお茶などの水分を持参するのは必須であり,を補給しながら歩くべきだと毎年の様に後悔してしまいました。

 
■高山城小史

永正年間に高山外記によって築かれたのが高山城のはじまりである。しかし高山外記は三木氏に攻められ,城は落城してしまった。三木氏は新たに松倉へ城を築いたが,金森長近をはじめとする豊臣軍に攻められる。そして天正一四(1586)年に金森長近が飛騨を与えられると,飛騨を治める為に築城されたのが,現在の高山城である。天正一六(1588)年から築城しはじめ,慶長八(1603)年頃に城は完成。当時は日本屈指の山城であったと現在に言い伝えられている。また城下の街をも整備され,今でも多くの寺院などが残されている。しかし高山城は元禄八(1695)年,幕府からの破却命令により,取り壊され廃城となった。
 
■情報

所在地 :岐阜県高山市
築城年 :慶長八(1603)年
関連武将:金森長近