高天神城
■高天神城散策
天正九年、徳川家康によって陥落するまでのおよそ10年間、徳川家と甲斐武田家との間で争奪戦が繰り広げられた高天神城。
今までに幾度か訪れる機会は得ていたが、天候などの理由により城巡りを断念していた。
それがやっと念願が叶い訪れた城が静岡県掛川市にある高天神城である。
それほど高くはない標高が132メートルほどの小山。戦国時代、ここに遠州を要となる山城が築城さ、東西からの争奪戦が繰り広げられていたのであるが、それを想像することは難しいほど閑静な地である。
今回は北口の搦手に用意されている駐車場を利用したが、南側の大手も車を駐めるスペースが存在している。
まずは搦手門跡から高天神城の東西中央部に位置する「井戸曲輪」を目指した。
今では石段が整備されているが、それでも急峻な坂を登っていると、城の堅固さの一端を垣間見ることができる。途中、「三日月井戸」を尻目にして「井戸曲輪」に到着。
高天神城入り口
的場曲輪
高天神城は大きく分けて東西に拠点が別れた形状となっている。東に「本丸」を配置し、西には「西の丸」。それらを連結している曲輪が「井戸曲輪」だ。まずは東側にある「本丸」を目指した。
東側へ向かい左、つまり北側を登った先にある曲輪。「的場曲輪」と読んでいる。今では木々が生い茂っているが、これらを取り払うことで北側への眺望が開けることは言うまでもない。またここから「大河内政局石牢」へと続く道への入り口となっている。
木々に陽を遮られ、少々薄暗い道を抜けると「大河内政局石窟」がある。ちょうど「本丸」の真下に位置しているだろうか。ちなみにこの石窟であるが、武田勝頼により落城した高天神城。徳川方であった大河内政局は武田方に就くことを良しとせずに、天正二年から同八年にかけて幽閉されたと言われている。黒田官兵衛も真っ青な期間であった。
大河内政局石窟
本丸
余談はともかく、なんとも薄気味悪く思える地である。
そして向かった先が「本丸跡」である。「本丸跡」は城の東側に位置しており、現在では土塁といった遺構を確認することが出来る。
思ったよりも広い。しかしこの「本丸」、なぜ他は「曲輪」と称しているのに本丸なのだろうか。
「本曲輪」という名称ではだめであるのだろうか。気になっていた仕方がない。
この「本丸跡」の一角には「元天神社」という祠がある。後述する西の峰にある「高天神社」のご神体は、ここから江戸時代に移されたと言われているが。
「御前曲輪」には昭和初期に天守を復元したという痕跡が残されている。また顔を出して記念写真が撮れる様にと、小笠原長忠とその奥方の張りぼてが用意されているが。ひとまず写真にはおさめておいたが、子共が居たら楽しめたかもしれない。
そして足を南へ向け「追手門」方面へと歩いた。ここは山城であり、ここからは下り坂である。その途中にあるのは四阿が設営された「三の丸跡」。ここでは「本丸跡」以上に土塁が遺されており、曲輪を囲む模様を目にすることが出来る。
御前曲輪
追手門跡
さらに下ると「着到櫓跡」なるところが目に入ってきた。しかし現在は倒木もあり、奥へ進む勇気と気力が無いためそっと見守るのみで、その先へと歩み始めたのであった。
「追手門跡」。城の表玄関とでも表現しようか。今でも登城してくる人向けに駐車場もある。こちらから城を巡ることもできるのだ。この「追手門跡」には町指定の天然記念物である「高天神追手門跡スギ」と書かれてスギの大木が聳え立っている。
花粉というキーワードを除けば、立派なスギのきであろう。
今度はこの「追手門跡」より城巡りをやり直すこととなった。東の峰から西の峰へと城巡りの場所移動である。鹿ヶ谷を左手に眺めつつ、「井戸曲輪」へ戻ることとなる。
途中、崩れかけている城跡の姿を、斜面と共に滑り堕ちた倒木を眺めると、あと一〇年もすれば城の様子が一変するのではと思いながら登り坂を歩むのであった。
「井戸曲輪」より今度は西側を目指した。ちなみにこの「「井戸曲輪」は先に巡った東の峰と、これから目指す西の峰の中間に跨る細長い尾根の上に築かれている。すると狛犬と共に牛に迎えられ、曲輪の名称の由来と思われる「井戸」が現れた。
「井戸」の名前は「かな井戸」。由来などの伝説は不明であるが、城の中心に位置していることから城兵の飲み水として使われていたモノであろうか。
かな井戸
袖曲輪
ここから北側に延びる尾根上に築かれた「二の丸」へ向かった。
今は木々に被われた曲輪跡。その先には「袖曲輪跡」と続いている。
ここから少し下ったところには、本間・丸尾兄弟の墓碑がある。
天正二年の事、徳川方として籠城していた兄弟は落城寸前に、武田方に狙撃されて落命したという伝説があるそうだ。先に足を運んだ「大河内政局石窟」も含めて、多くの悲劇にまつわるドラマが展開されていた事が想像出来る
そして「堂の尾曲輪」には、現代まで残る堀切を確認することができる。まさに曲輪を切り裂いた様に見えてくる。
さらに先に向かうと感極まる遺跡となる「空堀」が出現する。言葉で記す以上に立派な遺構な堀であり、その見事さは素人目にも判別することができる。
堂の尾曲輪の空堀
堂の尾曲輪の堀切
さて今の高天神城跡の「西の丸」には神社が建立されている。地元の人が祭礼などで集う所になっているのだろう。その神社の奥、西側に向かうと「馬場平」という呼称がつけられ、今日では展望台も兼ねた「曲輪」となっている。
大きめな「堀切」で隔てられた「馬場平」。南を向けば遠州灘が広がっている。ここからの眺望は高天神城という殺伐とした地とは別天地に思えてくる。もし城に籠もり、四方八方と敵方に包囲された際、ここから海を眺めた兵達は何を思うだろうか。
馬場平へ向かう堀切
甚五郎の抜け道
なおこの「馬場平」の先は「犬戻り猿戻りの険」と言われ、横田甚五郎尹松という武田方の武将が、徳川方の包囲網を抜け出した「甚五郎の抜け道」と後生に語られることとなる伝説の抜け道だ。少々異様な雰囲気が漂い、まさに生か死を賭した抜け道という表現でも良いかもしれない。
高天神城とは、天正年間における武田と徳川との間で繰り広げられた、遠州の支配権を懸けた総力戦の象徴的な城と思われる。
また高天神城は東側と西側では大分、城の構造が異なっている。
東側は緩やかな山城であるのに対して、西側は戦闘的な尖った構造に見えてくる。武田が対徳川に対しての攻防の跡であるのか。それとも地勢的にそう思えるだけであるのか。
■高天神城小史
築城された時期は不明である。 永正年間には駿河今川家の武将が入城していることから、それ以前に築城されたと考えられている。
永禄三(1560)年に桶狭間において今川義元が敗死を契機として、遠江での今川家の勢力が衰退するしはじめたことにより、城主の小笠原長忠は三河徳川家に従属する。
元亀元(1570)年には、甲斐武田信玄が遠江への侵攻をはじめ、二万五千とも云われる軍勢が城を包囲する。しかし当時の城主であった小笠原長忠は城を堅固に守り抜く。しかし翌二年には再度の来攻に屈しきれずに落城し、当城は武田方となる。
天正九(1581)年、三河徳川家康は兵を高天神城へすすめ、周囲に砦を築き包囲した末に落城させた。この時、徳川家康は城を焼き払い、破壊したと云われている。
■情報
築城年:不明
別 名:鶴舞城
所在地:静岡県掛川市
関連武将:福島正茂、小笠原長忠、岡部元信、横田尹松
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