逆井城趾

■逆井城趾散策


偶然というのか、たまたまドライブ中に近くを通っている際、地図上の文字に目が付いて向かった逆井城。

いつもの事ながら下調べ無しでの逆井城訪問となった。

城の周囲は堀と土塁、一部には板塀を用いている作り。そして迎えてくれたのは二重櫓。なかなか雰囲気は漂ってくる。下手に壮大な天守閣を鉄筋で建てるよりは、この様な素朴とも思える作りの方が好感をもてるだろう。

駐車城辺りから眺めた逆井城 逆井城、二重櫓
駐車城辺りから眺めた逆井城 二重櫓

城内へ向かいまずは外から眺めた二重櫓へ登ってみることに。ここからは城の全体とは言わないまでも、ある程度まで広範囲を見渡すことができる。櫓の入り口に記されている説明書きには、戦国時代の時代背景を元にして復元したという。

入り口から西へ向かい、次は二重櫓とともに城の象徴としてそびえ立つのが、高さが11メートルからなる井楼櫓。物見として城の周囲を監視するのに用いた展望台。しかし櫓に登ることは駄目でした。危険を伴うからだろうか。

井楼櫓 土塁
井楼櫓 土塁

城の周囲はこの辺りまで板塀が張り巡らされておりますが、ここから先は土塁に変化している。シンプルな柵でも土塁上に築かれていれば、雰囲気が向上したのだろうが、これだけでも一般敵な史跡公園よりも愉しめそう。いや土塁だけでも雰囲気は出ている。

また中央には主殿が設けられいる。この門は関宿城の城門であったと言い伝えられている門が移設されたという。ちなみに主殿は、大台城の遺構を参考にして復元したという。時代的には16世紀末頃。こちらの中を拝見することはかなわなかった。

この主殿のやや北東部に真っ赤な観音堂が建っている。こちらは大安寺(坂東市)から移築された様で、当時の城にあったかどうかは定かではない。しかし時代的には、天正16年に上棟され幕末期に大規模の改修があったと案内に書かれてあった。
主殿 観音堂
主殿 観音堂

さてさてこれまで見てきたのが二ノ郭であり、敷地面積だけで言えばまだ半分だというのだ。この時点で、思ったよりも広範囲が整備されていることに少々驚いた。

主殿の北側には金堀池という池がある。恒久的に水が干からびずにわいてくるのかどうか。それとも溜池なのか。当日が雨上がりのために水が張っており、判断することは出来なかった。

そして東側の二ノ郭へと向かうが、そこはゴルフ場(?)の様なものが出現。史跡公園というが実態は公園であることを象徴する変わり様だ。それでも周囲は土塁や堀に囲まれており、城郭として形成されているのだから史跡が主になるのだろうか。

西側の堀や土塁に目をいっていたら、東側に石碑を発見。逆井城跡と刻まれており、その先には櫓門が待ち構えている。そこへ導く様に掘りに架かった橋を渡ると、そこが逆井城の本郭という。

ちなみにこの櫓門と橋であるが、発掘調査の成果と戦国時代末期の資料を基にして復元されているという。最初に見学した二重櫓や板塀といったものも含めて、予想以上に戦国時代の城を復元することへのこだわりを感じた。

櫓門と石碑 本郭からみた櫓門
櫓門と石碑 本郭からみた櫓門

本郭には木々が鬱そうと茂っており、ここが城の中枢であることを示すものは皆無だ。ちなみに城があった当時、この本郭の北側には川が流れていたという。さらに付け加えれば逆井城自体、西から北側に掛けて、およそ半分ほどが川で囲まれ天然の堀が形成されていたとか。

ぶらぶらと本郭と二ノ郭を挟む堀を歩いてみると思ったよりも深かった。両郭に架かる橋を下から眺めると、また違った印象を抱くことができる。

ここの堀は上から眺めるよりも深い。この堀を進んでいった先が金堀池ということだ。これで城を一周したことになる。

この城の歴史を踏まえた上でもう一度、こちらの城を巡ることが出来れば、戦国時代の雰囲気をさらに深めることができそうだが、次に来るのはいつだろうか。

 
■逆井城小史

築城年は不明であるが享徳年間頃と推測され、小山氏がこの地に住み着き逆井氏を名乗りをしたのがはじまりだと言われている。逆井氏は古河公方方に属する国人であったが、天文年間に小田原北条方の大道寺某に城は攻められ落城。逆井氏はこの地を去ったとも、滅亡したともいわれている。その後は北条氏の支配下に入り、天正五(1577)年に北条氏繁によに大規模な修築が行われた。天正一八(1590)年、豊臣秀吉の小田原攻めにおいて、北条氏が降伏後は逆井城は廃城となった。また逆井城には風摩小太郎の子を含め、忍びの者が多く詰めていたという伝説もある。
 
■情報

築城年 :????
所在地 :茨城県猿島郡猿島町
関連武将:逆井氏



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