小山城趾

■小山城趾散策

静岡県榛原郡吉田町にあるこのお城。小高い丘の上にそびえ立つ模擬天守閣に目がいってしまう。このお城はいつの時代に築城されたのかと、調べてみれば、戦国時代に遡り甲斐の武田氏による遠江の拠点であったことが分かる。

ちなみに縄張りを行ったのは、馬場信房であるという。

この小山城へ足を運んだきっかけは、焼津という地へドライブがてらフラッと出かけ為である。ちょうど地図で目についた「小山城」という文字。漁港で食事をした後に、車で西に向かい目指した能満寺山公園がそれであった。

駐車場は城を見上げるかたちで整備されており、ここから丘を登っていくことになる。余談になるが駐車城脇には鰻屋があり、昼時を過ぎていたにも関わらず、以外に人の出入りがあった。

城への入り口にある能満寺。せっかくここまで足を運んだのであるから城以外にも、大ソテツを見学することがお奨めである。

小山城 小山城
能満寺から本曲輪へ向かうには 現在の小山城模擬天守

さて城巡りである。丘陵に縄張りされており、本曲輪を目指して進むには坂道を登る必要がある。急な斜面に築かれた石段、子連れでは躊躇してしまう傾斜であるが、その脇道になだらかな迂回路(女坂)が用意されているので一安心。

坂を登り切ると、天守閣が目に入ってくる。しかしこれは昭和六二年に国宝犬山城をモデルに建てた模擬天守であり、建築地も本曲輪では無く三ノ曲輪である。

左手に復元堀が現れる。意外と大きなものであり、それなりに見学。右手方面の曲輪(こちらが本曲輪なのかな)の周回を歩き城の規模が検討つく。

先ほど見学した復元堀。橋が堀を跨ぐ様に架かっている。その先は馬出曲輪に様になっており、曲輪の西方にも堀が復元されている。武田家による築城であることをものがたる三日月堀である。

小山城 小山城
復元堀と左側が馬出曲輪 三日月堀

ちなみにこの城は、東方から西方に向かって城が築かれている。

せっかく来たのだからと、模擬天守閣に登ってみることに。入城した所、つまり一階には戦国時代当時の小山城を復元した模型が飾られている。もちろん天守閣などは存在しない土の城だ。展示されていた城の縄張りを頭に入れて、いざ展望台へと足を運んだ。

最上階へたどり着くと景色は360度のパノラマ。南方は遠州灘を見渡すことができる眺望である。当日は少々風が強くのんびりと景色を眺めるといった気分ではなかったのが残念であった。また北側は復元された堀などを俯瞰することができる。

小山城 小山城
天守から遠州灘方面を望む 天守から城内を望む

そして次に向かったのが三重堀。三段、連続して築かれた三日月堀を見学することができる。ちなみにこの堀。小山城が落城した折に、武田家に属した婦女子がこの堀に身を投げたという。その怨念からか婦女子が赤い唇をしたヒルに身を変え住み着いたという伝説が残っている。

現在の三重堀は大半が埋まってしまい。それほど深くは見えない。しかし敵の侵攻を防ぐという目的を持つ堀なのだから、当時はよほど深く、工夫を凝らした堀であったのであろう。

またこの「勘助井戸」という名の伝説の井戸も存在している。なんでも武田家に仕えた山本勘助に由来のある井戸であるとか。ちなみに小山城が武田方の手中に治まったのが永禄一一(1568)年頃と言われている。あら、山本勘助とは永禄四(1561)年、八幡原で討ち死にしている。ということは今川時代の伝説なのであろう。

この小山城、史跡という視点でみると物足りなさが残る。しかし幼児を連れて城巡り気分を味わうには丁度良いのかもしれない城ですね。

 
■小山城小史

遠江東部の押さえとして駿河今川氏により築かれた砦が前身である。永禄一一(1568)年、甲斐の武田信玄は今まで同盟国であった駿河へ侵攻、翌一二(1569)年には砦であった小山城へ入る。本格的に城としての役目をもって縄張りされたのは、元亀元(1572)年のことであり、武田家の武将である馬場信房が行ったと伝わっている。城主は大熊朝秀。武田信玄死去後、後継者となった勝頼は遠江に城や砦を築城して防衛線を張る。しかし小山城周辺の城は次々に落城。天正一〇(1582)年、城は開場して三河徳川家康の手に堕ちた。
 
■情報

築城年 :元亀二(1571)年
所在地 :静岡県榛原郡吉田町
関連武将:馬場信春、大熊朝秀



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