忍城
■忍城散策
不落の城であった忍城。
天正一八(1590)年、豊臣秀吉が小田原北条氏を征討する目的で、軍勢を関東へ出陣させた。方々で北条方の城は大軍に包囲され落城してく。そんな中、北条方の城で攻められながらも耐え、落城しなかったのが忍城であった。
周囲が湿地帯であり、沼地に築かれたことで「忍の浮き城」といわれた忍城。そのれは現在の埼玉県行田市にあたる。
忍城のシンボルといえるのが、昭和六三年に本丸跡に復元された「御三階櫓」。それを囲む様にして北および東側を堀が築かれている。これが浮き城といわれた忍の姿を引き立てている様にも見える。
このシンボルである三階櫓を含めて、現在では「行田市郷土博物館」となっており、車での訪問にも駐車場が用意されているので困ることはない。
第一駐車場へ車を駐車した際、そこから本丸内へ向かってゆく途中、土塁跡をまず確認することができる。
脇は中学校になっており、また東京電力の敷地がその逆側にある町中の風景。そんな中にこういった遺構が語り継がれている。
なお「御三階櫓」であるが、江戸時代には実質的に、天守の役割を担っていたそうだ。
御三階櫓
門と橋
また敷地内にある「鐘楼」という当時の鐘が、博物館内に展示されいる。ちなみにこの鐘は、文政六年に松平忠堯が、伊勢桑名から入封する際に、持ち込んだものだとか。
そして「高麗門」であるが、明治時代になり解体され、それは民間に払い下げられていたとか。しかし「御三階櫓」が復元されたと時、再移築されて城の敷地へ戻ってきたという話が残されている。
。 ちなみに「行田市郷土博物館」は行田市の成り立ちを、色々な形式で学べる仕組みが出来ている。主に江戸から昭和時代までであり、時代の変貌をパネルなどを利用してで説明されている。ここから産業として足袋が有名な町だったことが読み取れることができた。
忍城へ来たら、その名を天下に轟かせる原因となった「水攻め」を外すことは出来ない。それを実行した大将である石田三成が本陣をおいたとする「古墳公園」へ足を伸ばしてみるのをオススメする。
いくつもの古墳を堪能することもでき、また遠く忍城を眺めて三成方の武将になりきるのも愉しむのも、城巡りの愉しみの一つかもしれない。
■忍城小史
関東七名城の一つに数えられる忍城。湿地帯を天然の要害とし、難攻不落を誇っていた。文明年間に成田氏により築城された。忍城が歴史上にその名を留めたのが、天正一八(1590)年、豊臣秀吉による小田原攻めの時である。秀吉配下の武将であった石田三成が大軍を持って城を攻め立てた。しかしなかなか落城しないため、城を水で沈めてしまおうという「水攻め」を慣行するのだが失敗に終わる。ついには城は落ちることなく、北条氏の本城であった小田原城が先に開城してしまったのだ。文禄元(1592)年には徳川家康四男の松平忠吉が入城する。江戸時代に入り、松平氏から阿部氏そして伊勢桑名から松平忠堯が転封し入城している。
■情報
築城年 :文明一一(1479)年
所在地 :埼玉県行田市
関連武将:成田氏長、松平忠吉
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