大阪城趾

■大阪城趾散策


東京から大阪まで東海道新幹線「のぞみ」に乗車しておよそ2時間30分ほど。遠い様だが新幹線に乗ってしまえば以外と近い。昔はこれほどの距離、年に数回はこなしていたが、最近はめっきり減ってしまった。近頃は、関東周辺を車でブラブラすることの方が多くなっている。

そしてひさしぶりに向かった大阪。家族旅行という名目であるが、何処にも拠ることなく帰京するのはもったいない。せっかくなのでという事で向かったのが因縁の大阪城。

大阪城はやはり大きい。最寄り駅からしていくつも存在している。今回利用したのは、JR大阪城公園駅。大阪城ホールなどに便利な駅だ。

さて現在の大阪城であるあるが、城域一帯が大きな公園として整備されている。近所に住居を構えるか、オフィスに勤務していれば格好の散歩スポットになるだろう。今回は青屋口から山里丸を経由して本丸へ向かい、二の丸経由で大手口から外堀を北上して、再び京橋口から二の丸を通り青屋口へと回る経路を辿った。

石垣の向こうにはオフィスビルが 本丸と二の丸を隔てる水堀
石垣の向こうにはオフィスビルが 本丸と二の丸を隔てる水堀


まずは外曲輪である青屋口から東仕切門跡を通り、二の丸へと足を踏み入れた。内堀を囲む石垣。素晴らしい石垣である。上方へ向かうほど傾斜が厳しくなる勾配が見事であり、水上に起つその姿は美しいものだ。そしてその奥には復元された天守閣の頭を捉えることが出来る。ひとまず目指すは本丸、天守閣だ。

東仕切門跡を抜け、左へ向かうと梅林。当日はお祭りが催されていたが、右手に向かい「極楽橋」を渡り本丸へと進むと、そこは歴史的にも有名な山里丸となる。こちらにある曲輪で豊臣秀頼と淀君らが最期を迎えたと伝わる地だ。

極楽橋で本丸へ 山里曲輪の石垣
極楽橋で本丸へ 山里曲輪の石垣


多くの人がそれを知って足を踏み入れているかどうかは不明だが、賑わっている大阪城全体の印象に比べて、どこか寂しい雰囲気だ。さらにこちらには大東亜戦争当時に受けた機銃の痕跡が石垣に残っている。

秀頼公最期の地をあとにして、石段を登ると「山里口出枡形」と呼ばれる虎口に行き当たる。ここからは大阪城で唯一と言われている腰曲輪を拝観できる。「隠し曲輪」とも呼ばれているそうだ。内堀を境にして二の丸を見下ろす位置だ。

山里口出枡形の石垣 本丸から天守閣を望む
山里口出枡形の石垣 本丸から天守閣を望む


そして姫門跡を抜け大きく高い石垣が目の前に現れてくる。これが現大阪城の天守閣が建つ石垣だ。この天守閣、もちろん戦国時代もしくは江戸時代からの遺物ではなく、昭和の時代に復元されたモノである。徳川時代の天守閣と豊臣時代の天守閣、それぞれの特徴を加味され復元されている様だ。

天守閣のある本丸。こちらから天守閣はよく見える。大阪のランドマークの一つであろう。

さらっと天守閣を観て、南へと向かい桜門を目指した。

ここ桜門の虎口には、とてつもなく巨大な石を使った石垣を拝むことができる。「桜門枡形の巨石」と呼ばれているその石は、「蛸石」とも呼ばれ城内で一番の巨石だという。その表面積は「36畳敷」といわれ、重量は103トンであると説明されていた。とてつもない巨石だ。ちなみに備前より「えっちら、ほっちら」と運んできたそうだ。

巨大な蛸石 空堀
巨大な蛸石 空堀


桜門を出ると本丸と二の丸を隔てる空堀が出現。こちらの空堀もまた見事であり、大阪城へ拠ったら是非にも押さえておきたい地点だろう。空堀から、天に向かってそびえるその石垣の姿は、実に麗しい。いちように積まれた石の数々を目に焼き付けておくのも悪く無い。空堀に降りて石垣を下から眺めてみたい衝動に駆られてしまうが、それは駄目ですね。

この二の丸には「豊國神社」があるので興味のある方は拠っていっては如何だろうか。その南には櫓跡がいくつかあるので、散策するのも悪く無い。

さらに「石山本願寺推定地」なる碑を見つけた。過去に幾度か大阪城を訪れていたが、これを観たのは初めてかもしれない。もう埋め立てられ、その痕跡を伺うことは不可能に近いが、徳川、豊臣と城主を遡れば、石山本願寺へと行き着くのは当たり前であり、この地を舞台にして織田信長との泥沼の戦が展開されていたとは、今では面影も何も目で見る事はできない。

さてこの二の丸の西側には、「二の丸庭園」という名の庭園がある。手が行き届いた整備が施され、散策するには丁度良く、歴史的にも櫓跡や屋敷跡、旧跡を見聞することもできる。しかし有料であり時間の都合もあり、今回は通過した。

空堀 千貫櫓
空堀 千貫櫓


そして「大手口」へ。「大手口」にも「桜門」の「蛸石」に負けないほどの巨石がある。城内で指折りの巨石だ。石好き(?)には堪らない石垣の風景が大阪城には広がっている。「大手口」の「多聞櫓」や「大手門」も多くの観光客の被写体になっていた。またこちらからは「千貫櫓」も目にすることが出来る。水堀に突き出た石垣の上に立つ櫓。この景観がまた天晴れである。

巨石の話が出たついでに、「京橋口」にも「肥後石」と呼ばれる巨石がある。こちらは築城の名手と呼ばれた加藤清正が運んできたと伝承されている。しかし実際にはそうではなく、徳川時代に池田忠雄によるものだそうだ。

なにはともあれ、大阪城の石垣について質、量、見所も含めて、極上の城跡である事はだれも否定しないだろう。次回、足を運んだ暁には、まだ見学出来ていない箇所を巡る予定だが、それはいった何時になることだか。

 
■大阪城趾小史

元は石山本願寺であったが天正八(1580)年に焼失。天正一一(1583)年、豊臣秀吉により築城がはじめられた。多量の石を用いて石垣を形成し、三重の堀で城郭を形成することで難攻不落を誇った。五層の天守閣には惜しげもなく金が壁や瓦に用いられという。しかし慶長四(1599)年に秀吉が死去すると、城主は豊臣秀頼と代替わりする。徳川家康が関ヶ原勝利後、江戸へ幕府を開府後、慶長一九(1614)年、同二〇(1615)年の大阪の陣において、大阪城は落城。城主である秀頼は短い生涯を閉じた。大阪城は破壊され、建造物も焼失するが、元和五年以降に徳川秀忠によって再建された。しかし豊臣時代の面影は無くなった。それは豊臣時代の城跡に盛り土や石垣などで嵩上げされたためである。
 
■情報

築城年 :天正一三(1585)年
所在地 :大阪府中央区
関連武将:豊臣秀吉、豊臣秀頼



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