名胡桃城

■名胡桃城散策


名胡桃城、こちらへ足を運んだのは今回が初めてではない。訪れたのはかれこれ一〇年以上も前(平成一〇年前後)のこと。久しぶりにふらりと立ち寄ってみた。

前に来た時は「だいたいこの辺り」という知識だけで車を走らせ、少々迷いつつ一度は行き過ぎたり、やっとの想いで辿り着いた。遂に発見という達成感を今でも覚えている、いろいろな意味で思い出の城跡だ。

当時はカーナビも装備されておらず、スマートフォンなんて便利なツールも所持していなかった時代。城跡自体にも駐車場が整備されておらず(遠い記憶であるが)、道路の端を拝借して路駐していたと記憶している。

今ではその様相が一変していることに対してまずは驚き、かつての苦労は何であったのか、改めて過ぎ去った月日と自分の年齢を思い返さずにはいられないなかった。

今回も車での立ち寄りであったが、「般若郭」が今では駐車場となっており、こちらに車を置かせてもらい城巡りへ出発。ちなみに「般若郭」から「本郭」や「二ノ郭」へは目の前。しかし間を隔てた大きな「堀」が行く手を阻んでおり、直接歩いて行くのは不可能である。歩いて行くことは可能だが、推奨されていないし禁止されている。

「般若郭」からの眺め 丸馬出
「般若郭」からの眺め 丸馬出


まずむかったのが「丸馬出」。国道沿いから入った際の玄関口となる。ここから「堀」を越えて行くと「三ノ郭」となる。この「堀」も幅広い。今では深さはそれほどでもないが、当時はかなり掘られていたのではないだろうか。

そしてさらに奥側となる「三ノ郭」へ。この間にある「堀」もまた広い。「土橋」になっていないことから、橋が架けられていたのかもしれない。

この「三ノ郭」。「二ノ郭」から入ると現在では分からないが「食い違い虎口」が形成されていたという。今ではその面影を遺すものは無く、案内の石碑のみだ。

二ノ郭の堀 二ノ郭
二ノ郭の堀 二ノ郭


「三ノ郭」は名胡桃城の中で「般若郭」をのぞくと最大の広さではないだろうか。不謹慎ではあるがちょっとしたグランドほどの大きさを備えている。幼稚園の園庭よりも大きいくらいだ。

さらに奥へと向かった先は「本郭」だ。こちらは「本郭堀」で隔てられている。崖の様な「堀」の底へ、一旦降りてからよじ登る様にして階段を上がると辿り着く。

当時は橋が架けられていたモノではないかだろうか。

その先で迎えてくれたのが「虎口」。そして「名胡桃城趾」と刻まれた石碑が建つ「本郭」だ。えんじ色に染められた六問銭の旗が、風になびいていた。まさに真田氏の居城。かつては城代として、この同じ地に鈴木重則が立っていたと思うと感慨深い。

「三ノ郭」から「本郭」へ 「本郭」
「三ノ郭」から「本郭」へ 「本郭」


「本郭」より先、かなり下った先には「笹郭」があり、こちらより沼田城方面を見渡すことができたであろう。この先には「物見郭」もあり、利根川沿いを俯瞰することができた。どちらも物見の兵どもが繰り出し、川や街道沿いを行き交う人々を監視していたのかもしれない。また南方に目を転ずれば、沼田城が構えているはずだ。天正一八年のあの変事を想像するに、その緊張感が伝わってこよう。

「本郭」から「笹郭」へ 「笹郭」からの眺め
「本郭」から「笹郭」へ 「笹郭」からの眺め


この名胡桃城の上に立つと上越国境の抑えの城として、その重要性を認識することがきっと出来る。大きくも無い山間部の小城でありながらも、歴史上でとてつもなく重要な地になったワケも納得できる。

などと勝手に想像を膨らませながら、久しぶりの名胡桃城をあとにした。



 
■名胡桃城小史

明応元(1492年)年、沼田氏により築城され、沼田城の支城としての役割を担う。天正七(1580)年、甲斐武田氏の家臣であった真田昌幸が、沼田城を攻略するための足がかりとした。天正一〇(1582)年、天正壬午の乱の際に真田昌幸が兵を上野へ入れ沼田城と共に名胡桃城も勢力下に治めた。天正17年(1589年)、豊臣秀吉に降っていた昌幸は、相模北条氏へ沼田領を譲り渡す様に命じられた。これにより名胡桃城以外の領地は北条氏へと引き渡すこととなった。真田氏に残った名胡桃城は鈴木重則が城代となった。同年秋、北条氏家臣であった猪俣邦憲の謀略により、名胡桃城は北条氏が強奪。この一件により秀吉の怒りに触れ、小田原征伐の口実をとなり、相模北条氏は滅亡することなった。そして名胡桃城は廃城となる。
 
■情報

築城年 :明応元(1492年)年
所在地 :群馬県利根郡みなかみ町
関連武将:真田昌幸、鈴木重則、猪俣邦憲
アクセス
車:関越道月夜野ICより国道17号経由



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