■箕輪城小史
箕輪城の築城は、大永六(1526)年に、長野尚業によるものであると言い伝えられているが、他にも説があるので定かではない。
長野尚業の子であった憲業の代になって、城郭を増強して現在の縄張りに近づいた。
この箕輪城が歴史の表舞台に立つのは、憲業の子である業政の代になってからである。
業政は、箕輪城を中心として、各地の豪族をまとめ上げ、西上野を支配していた。
主君であった関東管領上杉憲正が越後へ亡命すると、相模北条家や甲斐武田家による西上野への侵攻が激化。しかし業政は諸将を束ねることに長け、また外敵からの攻勢にも屈することなく、箕輪城を守り抜き、敵を退けることが出来た。
しかし永禄四年に業政が没すると、その子である業盛が長野氏を継ぎ、そして箕輪城主となった。その死は頑なに秘されていたが、甲斐の武田信玄の知るところとなり、武田家が西上野へ侵攻が激しくなる。
箕輪城にある周辺の城が武田の色に染まるなか、孤立した箕輪城は永禄九年に落城。
武田家の城となった箕輪城へは内藤昌豊が城代なり、、天正三(1575)年に昌豊が長篠にて討ち死にすると、その子である昌月が新しい城代となる。
天正一〇(1582)年に武田勝頼が自刃し武田家が滅ぶと、織田家の滝川一益が新たな城主として入城。
しかし織田信長が本能寺で横死後、箕輪城は神流川において滝川一益を破った北条家が接収し、北条氏邦が城代となった。
天正一八(1590)年、豊臣秀吉の小田原征伐時には、前田勢、上杉勢等に屈して降伏。
戦後、関東一円が徳川家康の支配下になると、井伊直正が一二万石の領主として支配する。井伊家が支配していた時代に近世城郭への大改修を施すも慶長三(1598)年に和田城(現在の高崎城)へ移り、箕輪城は廃城となった。