箕輪城

■箕輪城散策


「日本の100名城」の一つにも挙げられており、多くの人が訪れている箕輪城。過去に訪れた記憶はあるものの、湿気と虫に悩まされた城巡りであったことが大半の思い出である。

復元作業により城趾として、その姿が変貌していると耳にしていたが、まだすべては完了していない時期であった。

「搦手」にある駐車場から箕輪城の散策は始まった。

舗装された緩やかな傾斜の路を進むのだが、この先にあるのが「二の丸」と伝わる曲輪である。訪ねた時は入り口にポールがあり、車両の入城を拒んでいたが、過去に来たときはここ「二の丸」の辺りを駐車場として利用できた記憶があった。しかし今は立派な駐車場が搦手口外に出来ていることに驚きだ。

なお、訪問した時も復元工事中の真っ最中であり、実際に「郭馬出」周辺には重機が入り、見学すら出来ない状態であった。こちらの工事が終わったらまた来たいと思うのだが、次に訪ねてくるのは何時だろうか。
搦手口 木俣
搦手口 木俣

さてまず向かったのは「木俣」と呼ばれる曲輪。城の南側に築かれた比較的広めの曲輪である。この曲輪の周囲は堀に囲まれており、特に今は復元工事中の「郭馬出」との間を通る「堀」は深く、そして広く掘られている。ますます「郭馬出」に興味がわいてきてしまう。

ちなみに他の曲輪と異なり、「木俣」など南側周辺は復元工事は行われていない様で、これからどういう姿になるのかも不明だ。ちなみにこちらは井伊氏時代に築かれた曲輪であると、現地の案内版には掲載があった。

歩みを北側へ変えて、今度は「木俣」から「本丸」方面を目指すことに。「二の丸」と「郭馬出」を遮る様に深い「大堀切」に降りることが出来るため、ひとまずは「堀」の底を歩いて城の西側へと向かった。両側に迫った

大堀切りを見下ろす 大堀切りを虎韜門より見上げる
大堀切りを見下ろす 大堀切りを虎韜門より見上げる

階段も用意されており、楽に降りることも出来る。また雑草も刈られており歩きやすい堀である。なおここは城の西側の「虎韜門」へとなっている。なおこちらにも駐車場があり、城巡りの入り口ともなっていた。

気分を変えて今度は「鍛冶曲輪」へと向かった。「鍛冶曲輪」は城内にあった鍛冶場跡であったと言われている。曲輪の入り口と思われる付近には石垣も確認ができる。現在は鬱蒼と木々が生い茂っており、また先へ行くには登り坂が続く斜面を歩む必要がある。

鍛冶曲輪 三の丸
鍛冶曲輪 三の丸

曲がりくねった坂道の階段を登ってゆくと、眼前に現れるのが石垣であった。「三の丸」である。石垣は曲輪の南側を囲む様にして積まれており、当時は門扉が備わっていた様だ。なおこの石垣についても井伊氏時代のものであるとのことだ。この「三の丸」の東側は先ほど歩んだ「大堀切」であり、見下ろすことができる。

この「三の丸」もそうだが、各曲輪が「堀」でしっかりと仕切られており、コレがこの城の強みとなり、難攻不落という枕詞が付く箕輪城が誕生したのかもしれない。

「三の丸」の曲輪から北側へ続いているんが、「蔵屋敷」という名が付けられている曲輪である。この「三の丸」と「蔵屋敷」の北東側には「本丸」が位置しているわけであるが、その間に横たわる大きな堀。遊歩道ともなっているのが「箕輪城」の名物とでも言い換えても良い巨大な空堀。いまは遊歩道ともっており、堀底から曲輪を眺められるので降りて散策をする。

雄大な堀に降りるてみると、今までとは違う景色が広がり、その深さを実感することができる。遊歩道に沿って北へ向かうと右側が「本丸」、左側が「蔵屋敷」となる。この両曲輪の間を往時は、堀の頭上を橋を渡して行き来していたそうだ。そうった風景を想像するのもまた良いかもしれない。

三の丸からみる空堀 空堀から
三の丸からみる空堀 空堀から

なおこの遊歩道は城の北側まで向かっているのだが、途中で「本丸」と「御前曲輪」へいちど向かい曲輪へ登ることが出来る様になっていた。 「御前曲輪」を眺めていると石垣を確認出来るが、何時の時代であるのかは分からない。このまま堀に従り歩いて行き、堀の散策を終えたので次は「本丸」へとむかった。

御前曲輪の石垣 本丸北側の風景
御前曲輪の石垣 本丸北側の風景

仕切り直しとばかりに「二の丸」からはじめた。広場という言葉になってしまうが、大きい曲輪であることは間違い内。そこから「馬出」となるが、そこから先ほど歩んだ「堀」を見下ろすことが出来る。そこから眺めていると、先ほど歩いた堀の底を歩るく散策者が小さくみえてしまう。改めて堀の深さと大きさを、思い知らされる絶景だ。

北側へ向かうと「本丸」に付くのだが、その手前が「馬出」となっている。

さて「本丸」であるが、ここも「二の丸」に負けない広さを持つ曲輪である。立派な城跡碑もあることで、箕輪城を主張している城の中枢でもある。周りを今でも残る土塁に囲まれており、一面が緑の草が生い茂った平地となっている平成時代の姿だ。足を踏み入れるのを拒んでいる様に生い茂っている緑の草花。

「本丸」と「蔵屋敷」の間には橋が架けられていたという。いまではその姿を目にすることは出来ない。しかし「本丸」の西端まで歩み、西側の「蔵屋敷」へ眺めると空堀を跨いだ先の曲輪へ向けた橋の姿を想像することはできるだろう。

本丸 御前曲輪
本丸 御前曲輪

さらに北側に位置するのが「御前曲輪」。ちょっと時代を感じる木製の碑に記された「国指定史跡 箕輪城跡」をみると、なぜか古き良き時代の姿を見た感じたのは気のせいだろうか。



【2017/06/30追記】

「郭馬出西虎口門」が完成していた。

郭馬出西虎口門 郭馬出西虎口門
郭馬出西虎口門 正面 郭馬出西虎口門 裏面

以前に訪ねた時には、重機が持ち込まれて大がかりな作業の様子がみられたが、今回はその成果をめにすることができた。
なお城門は常時、開かれており誰でも通ることができる。発掘調査や各地の城門を参考にして推定復元とはいえ、それなりに貫禄があり箕輪城の象徴としてこれから目にする機会もおおくなるだろう。
過去には遺構を目当てに訪れる人が中心であっただろうが、ここ最近の復元工事のおかげで見学もしやすくなった。さらにこうした建造物も復元されることで、より多くの人が興味を持ち歴史好きが多くなるきっかけになるのかもしれない。




 
■箕輪城小史

箕輪城の築城は、大永六(1526)年に、長野尚業によるものであると言い伝えられているが、他にも説があるので定かではない。
長野尚業の子であった憲業の代になって、城郭を増強して現在の縄張りに近づいた。
この箕輪城が歴史の表舞台に立つのは、憲業の子である業政の代になってからである。

業政は、箕輪城を中心として、各地の豪族をまとめ上げ、西上野を支配していた。
主君であった関東管領上杉憲正が越後へ亡命すると、相模北条家や甲斐武田家による西上野への侵攻が激化。しかし業政は諸将を束ねることに長け、また外敵からの攻勢にも屈することなく、箕輪城を守り抜き、敵を退けることが出来た。

しかし永禄四年に業政が没すると、その子である業盛が長野氏を継ぎ、そして箕輪城主となった。その死は頑なに秘されていたが、甲斐の武田信玄の知るところとなり、武田家が西上野へ侵攻が激しくなる。
箕輪城にある周辺の城が武田の色に染まるなか、孤立した箕輪城は永禄九年に落城。

武田家の城となった箕輪城へは内藤昌豊が城代なり、、天正三(1575)年に昌豊が長篠にて討ち死にすると、その子である昌月が新しい城代となる。 天正一〇(1582)年に武田勝頼が自刃し武田家が滅ぶと、織田家の滝川一益が新たな城主として入城。

しかし織田信長が本能寺で横死後、箕輪城は神流川において滝川一益を破った北条家が接収し、北条氏邦が城代となった。
天正一八(1590)年、豊臣秀吉の小田原征伐時には、前田勢、上杉勢等に屈して降伏。

戦後、関東一円が徳川家康の支配下になると、井伊直正が一二万石の領主として支配する。井伊家が支配していた時代に近世城郭への大改修を施すも慶長三(1598)年に和田城(現在の高崎城)へ移り、箕輪城は廃城となった。
 
■情報

築城年:大永六(1526)年
所在地:群馬県高崎市箕郷町
関連武将:長野尚業、長野憲業、長野業政
アクセス:関越自動車道前橋ICより20分(駐車場あり)



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