■三増峠合戦小史
永禄一二(1569)年に相模(現神奈川県愛甲郡愛川町)で行われた合戦である。この戦いは甲斐の武田信玄率いる兵を,北条氏照,氏邦兄弟率いる北条軍が迎え撃つ格好で,行われた。ことの発端は前年の永禄一一(1568)年に起こっている。武田軍が同盟関係にあった駿河今川氏を攻め,同じ様に関係を結んでいた北条氏とも東駿河で対峙する様になった。そして永禄十二(1569)年,武田信玄は二万の軍勢を率いて,小田原城を囲んだ。しかし難攻不落ということを自他共に認める城は堕ちる事無く,また無理な力攻めを行わずに,信玄は甲斐へと引き返す様に軍勢を退かした。その経路は小田原から北上し,現在の厚木市,愛川町,相模原市(神奈川県)を通り,甲斐へと向かった。その行く手を阻む様に,北条氏照と氏邦は挟撃する様に,武田軍を待ち構えていた。ちなみに小田原城を攻める前,武田軍は武州滝山城を陥落目前まで攻めていたのである。そしてここで采配を振ったのが北条氏邦であった。さて布陣を終えた北条軍であったが,その様子は武田軍の諜報網により察知され,信玄の手腕が発揮されたのである。武田は軍勢を三隊に分けた。一隊はそのまま正面から北条軍に当たらせ,残りの二隊を山中に迂回させ,敵軍の側面を衝くというものであった。はじめは互角な戦いで推移しており,武田方は浅利信種などの武将が討死するなど,若干不利な状況でもあったと言われている。しかし戦況が一変したのが,別動隊が北条軍の側面を衝いたときである。これで完全に武田方有利となり,終わってみれば圧勝であった。ちなみに損害は武田軍が一〇〇〇ほどであるのに対し,北条方は三二六九であったと甲陽軍艦は伝えている。実はこの合戦のさなか,小田原城より北条氏政が自ら兵を率いて北上していたのである。しかし三増峠における戦いで,武田軍の圧勝という報に接すると,そのまま軍を返してしまった。武田軍は意気揚々と相模から甲斐へと退却していったのである。そしてこれが武田と北条との再度同盟を結ぶ契機ともなった。
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