松山城趾
■松山城趾散策
武州松山城へ向かった。関越自動車道東松山ICより車で15分ほど東へ向かうとその城は現れる。松山城というよりも吉見百穴の方が観光の名所として知られているのかもしれない。今回利用した駐車城にしても「吉見百穴」向けであった。
ちなみにこの松山城。小高い丘陵地に築かれた山城である。北方から流れてくる市野川が城の西、さらには西をと囲んでいる。城跡へ足を踏み入れるための入り口となったのは搦手方面。ここから今回の散策が始まった。
城跡へ足を踏み入れると、そこはまさに山城であった。思ったよりも急峻な山肌の坂道を登りながら、たどり着いたのが城の本郭。こちらへ歩いてくる途中に笹郭と呼ばれる郭が存在しているのだが、当日は何もも考えず歩き続けて素通りしてしまった。
搦手から登る道
本郭と二ノ郭の間の空堀
さて本郭であるが、思ったよりも広い土地が確保されている。中央部にはコンクリートで何かを建てた跡が残っていたが、、これは何なのだろうかと疑問がわいてきた。本郭周辺を散策してみると、東側の二ノ郭との間の堀の深さに目を奪われた。大きな空堀が横たわり、侵入者を待ち構えているかの様に大きく口を開いている。本郭の探索よりも、その大きな堀に対して目を奪われてしまった。
ちなみに本郭には、城の案内版と石碑が建てられていた。ここで記念写真を、と考える人は少なく無いはずだ。
石碑
空堀
そして次に向かったのが二ノ郭。あの大きな空堀の向こう側だ。当日は落ち葉が足下を埋め尽くし、道などというのは覆い隠されていたた。そのためかどうかは定かではないが、道順というのを迷ってしまったらしい。いつも思う事であるがやはり縄張り図は必須だ。
本郭からはいったん空堀へくだり、そこから二ノ郭へ登るのが正解らしいが、これに気がつくまで時間を要してしまった。空堀へ降りてみて改めて堀の深さに気がついた。本郭ももちろん、二ノ郭までの高低差が大きいことがよく分かる。
二ノ郭と春日郭の間にある堀
春日郭に遺る土塁
二ノ郭は南北に広いコの字型である。ここも本郭に負けないくらいの広さを持った郭だ。ここを囲む堀は現代でも深く、当時を想像するに相当な深さであり、防御の要として君臨していたことがわかる。
そこから東側は春日郭となる。南北に細長く構築され南側には馬出が存在している。さらに南へ小型の帯郭となり、ここまで来ると視界が開けて眼下には学校を望むことができる。春日郭では土塁も確認することができた。
春日郭から掘切を渡り、さらに東側に位置する三ノ郭へ。東側にも空堀を確認することができる。しかしここは今までに見てきた他の堀と比べると、規模が小さく素通りしてしまいそうだ。また西側には土塁が築かれており、こちらは一見する価値がある。この土塁の先。ここは腰郭となっている。
三ノ郭まで一通りの見学を済ませた後、本郭まで一旦もどり、そこから北側斜面下にある兵糧倉という郭跡を目指した。
兵糧庫
岩室観音堂
ここは本郭よりも低い位置にある。名前の通り兵糧庫が設置されていたところなのだろう。これよりもさらに下ると腰郭が左右に見えてくる。こちらも郭として残存している。一通り巡り、岩室観音堂より出てきた。
ちなみに岩室観音堂へは少々険しい岩場となっており、当日は雨水でぬかるんだためか、大変滑りやすい状況であった。それでもここを登ろうという人がいることに、驚きつつも敬意を込めてそれを見送り松山城を後にしたのであった。
時間が許せば隣接している吉見百穴を見学する順路を巡ることもできる。
■松山城小史
応永年間に上田氏により築かれる。戦国時代には武蔵を舞台に、扇谷上杉氏、山内上杉氏、古河公方、そして小田原北条氏による争奪戦が繰り広げられていた。天文六(1537)年、川越城が北条氏綱により陥落すると、松山城は上杉友定の居城となる。天文一四(1545)年、後世に伝わる川越夜襲により扇谷上杉氏が滅亡すると、松山城は北条氏が奪うが、上田朝直や太田資正により奪還される。しかし上田朝直が北条方へ翻ったことで、松山城は北条氏の支城の一つとなる。永禄四(1561)年、越後長尾景虎(上杉謙信)により落城するが、同六(1563)年には北条氏、甲斐武田氏の連合軍により陥落。その後は再び北条氏の配下となっていた上田氏が統治する。天正一八(1590)年、豊臣秀吉による小田原征伐では、前田利家や上杉景勝の軍勢に包囲され落城する。
■情報
築城年 :????
所在地 :埼玉県比企郡吉見町
関連武将:上田朝直、太田資正
アクセス:関越道東松山インターチェンジから車で30分ほど
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