松井田城

■松井田城散策
古来から往還が盛んであり、碓氷峠の玄関口となる交通の要衝の地である松井田。現在は国道18線がとおり、見守る様にして松井田城は築城され、今日でもその遺構を確認することが出来る。また、松井田城はかなり巧妙な縄張りであり、見所も多く存在しているという。

車で向かうには上信越道の松井田妙義ICから、国道18号線に出てから高崎方面へ向かうが、その入り口には案内版が申し訳なさそうに出ているので、見逃さない様に注意する必要があるだろう。

また城への入り口も不安となる。案内版を見逃さず向かえば、そこは城跡の入城口。ついでに駐車できる区画もあるので便利だ。

入り口 堀切り
入り口 堀切り

「登山道入口」と足下に看板があるので、その指し示された方向へ進むことで城跡の奥深くまで行ける。向かう先は「本郭」。ちなみに駐車場のあたりは大手口ということになるそうだ。ここから城跡へ歩んで行くこととなる。

細い一本の道。両側は草木に被われている景色だが、まず迎えてくれたのは「堀切」。立て札に説明があるのだが、もし何も通知がなければ通り過ぎているかもしれない。草木が生い茂っていたら判別しにくいのは山城の特徴とでもいうべきか。幾つかの「堀切」を越えると左右への岐路へと行き当たる。

左が「水の手」であり、右が「城跡入口」と案内版には記されている。

一周できるのかどうか、この時点は定かでは無かったが目指すは「主郭」。「水の手」はまた帰りに立ち寄ることとして後回しとした。まずは右側を散策することとした。両脇に木が茂る獣道を歩く。右側が崖となっており滑落したら危険だ。左側には本郭があり、天を見上げる様に眺めるのだが、草木が邪魔をして全体像がよくわからない。

やがて原生林の中に現れたのが「横堀」。案内によると、自然堆積土があまりにも多いとのことで、築城当時の巾については不明である様だ。おそらく大きな「横堀」が存在してたのだろうと勝手に想像を膨らませてしまう。

さらに向かうと分岐に行き当たり、左が「主郭」。そして右が「畝状竪堀」だ。「主郭」は後回しとして「畝状竪堀」へ向かうことにした。

しかし行く手を阻む様にして倒木が道を塞ぎ、またどこが畝状なのか竪堀なのかが、瞬時に判断が出来かねない状況。人の手が入っていないと考えれば納得である。でも良く分からん、というのが正直な感想だ。少し歩き回るも小さな虫に悩まされ、「主郭」を目指すこととした。

「主郭」へ向かうと中、かなり狭い登山道に出現した石垣群。そこには「門跡」という案内版があり、当時のここには「大手門」が存在していたという。この門の先には「主郭」と「中城」が東西に存在しているのだ。

辿ってきた道はそのまま「堀切」となっており、「主郭」と「中城」を分断している様に通っている。もったいぶる訳では無いが「主郭」は後回しとして、まずは「中城」へを散策することとした。

手前が主郭、奥が中郭 中城
手前が主郭、奥が中郭 中城

その「中城」の手前には「馬出」がある。しかし形状がよく分からず、そのまま先に進んでしまった。

「中城」の一部には「土塁」の一部が遺されていることが確認できる。全部がどの程度の広さを有しているのか、木々が生い茂る林の中では想像するしか無い。ここまで木々の傘にふさがれていたが、やっと陽の光を浴びることができ、ホッと一息を付くことが出来た安らぎの郭だ。

一通り散策した後は「本郭」へ。もちろん天守などは存在しない城であるので、ランドマーク的なのを期待してはいけない。また城下を見下ろす眺望は少し期待するのだが、なぜなぜ木々に目隠しされてしまっていた。

「中城」の「土塁」 「水の手」から頭上を眺める
「中城」の「土塁」 「水の手」から頭上を眺める

「本郭」を散策すると建物が。あとで知ったことだが虚空蔵菩薩を祀る建物だという。また一段高いところがあり「櫓台」と案内には記されていた。周囲を可能な限り散策し、見学できるところは自己満足に納得し戻ることに。

途中、「水の手」に寄るのは忘れていなかったのでここに記す。

まさに原生林に迷い込んだ雰囲気漂う獣道。足下の土はぬかるみ、滑らない様に気をつけながら進むと、獣の足跡(イノシシか?)を目にしたが、姿を見ることは出来なかった。「水の手」までなんとか辿り着いた。木々に被われているのは変わらないが、今までとは違い、湿気がまとわりつく空気。

さらに奥へ迎えそうだったが、道が見あたらずここで戻ることとした。

後々にあってからだが、「水の手」から南側の頭上にあるのが「安中郭」らしい。今回は辿り着くことができず残念だが、次回は足を伸ばしたい所である。

 
■松井田城小史

松井田城のはじまりは不明である。
安中忠親が永禄年間初頭に築城した松井田西城、もしくは松井田諏訪氏による諏訪城とも言われる。永禄四(1561)年になると甲斐武田家による上野侵攻がはじまり、諏訪城はこの時に落城していると記録には残されている。この周辺一帯は武田家に統治されたため、松井田城も武田家の一つの城となったのだろう。
天正一〇年に武田家が滅亡すると、相模北条家が松井田城の奪取を目論むも、織田家の滝川一益が占拠した。しかし本能寺の変により情勢は変わり、滝川一益は北条氏により関東から放逐され、松井田城へは北条氏の大道寺政繁が城代として入城。
天正壬午の乱において、信濃を中心に徳川家と争う姿勢を示した北条家であったが和睦。この時、上信国境を守護する松井田城は大幅に改築された様だ。その改築の効果を試す機会が訪れたのが、天正一八年の豊臣秀吉による小田原征伐である。
北国の大名小名を中心として松井田城が包囲されるが、およそ一ヶ月の籠城戦の後に大道寺政繁は降伏を決断して開城。松井田城は廃城となった。
 
■情報

築城年:永禄年間
遺構:土塁、堀切、竪堀、空堀
所在地:群馬県安中市松井田町
関連武将:安中忠親、大道寺政繁
アクセス:上信越自動車道 松井田妙義IC(駐車場あり)



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