小諸城

■小諸城散策

今では懐古園として親しまれ,島崎藤村の記念館や動物園,また紅葉などの季節には多くの人が訪れる観光名所となってます。

車で行くなら上信越自動車道の小諸IC,電車を利用ならしなの鉄道の小諸駅がもっとも一般的でしょう。ですが今回はドライブついでによったので,佐久から国道141経由で現地へ到着。

過去にも一度,小諸城へは足を踏み入れたことがあった。ちょうど秋の季節だったはず。前は観光という名目であり,今回は城巡りである。なので同敷地内にある「藤村記念館」や動物園へは向かわなかった。

さて小諸城。

最初に訪れるところとしてもっとも一般的であるのが,重要文化財にも指定されている「「三の門」でしょう。二層になっている城門であり,大きく「懐古園」と額に記載されていた。これは徳川家達という人の筆によるものらしい。

ちなみに大手門はしなの鉄道の線路の反対側に位置している。

ここから¥500入場券を携えて,三の門料金所を通過。この料金所の左脇には懐古館というちょっとした資料館があります。また右手側は「二の丸」となっており,高く石垣が積み重なってます。

さらに進むと「南丸跡」があり,「北丸跡」さらに進むと「黒門橋」にたどり着きます。橋の下は堀になっており,緊急時にはここを切り離し,その先の「本丸」に籠城ということになるのでしょう。ついでにこの橋の先には,大きな門があり「黒門」と言われていたそうです。橋の名もそれにちなんで付けられたはずです。

この橋を渡れたそこはもう「本丸」でした。いまでは「懐古神社」が君臨しておりますけど。その神社の奥を通り抜けてゆくと,「天守台」へとたどり着きます。ここからは小諸城では一番高いところでしょう。その昔は三層になる天守が存在していたとか。またこの石垣は下からみれば,やや高いという感じであるが,上から見下ろすと足がすくんでしまう。また柵などは無いので転落に注意である。

またこの「本丸」にはちょっと珍奇なモノがあった。それは「鏡石」という表面を鏡の様に磨かれた石である。それはただの石では無く,あの山本晴幸が愛用していたという伝説を持っている。これは一見の価値ありと思ったのはわたしだけだろうか。

千曲川を眺める その先へ行くと「馬場」であり,現在では数多くの桜が植えられており,晴には桜の名所となっている。今は子供たちの遠足の昼食休憩の場であった。

その奥は崖になっており,その先には千曲川が流れている。

この馬場の東端には「富士見台」。天気の良い日であれば,遠く富士山を望めるとか。訪れた日はあいにく確認ができなかった。また西端には「水の手展望台」となっている。ここから眼下の千曲川の水を汲み上げていたのだろうか?ちなみにここからは千曲川の流れ,また北には浅間山の山頂がのぞめます。

敷地内にはこうした城の跡だけでなく,歌碑などもありそれらを読みながら歩くのもよいでしょう。また近辺には郷土博物館や寅さん会館など,バラエティに富んだ施設があり,半日は愉しめると思います。

 
■小諸城小史

この地を治めていた豪族大井氏の鍋蓋城であった。天文年間に武田信玄が小県侵攻に陥落。それ以降は武田家の北関東進出の拠点となり,家臣であった山本勘助,馬場信房の両名に築城を命じたのが小諸城の始まりである。この城は周囲よりも一段,低い位置に築城されており「穴城」とも呼ばれている。武田家が滅した天正一〇(1582)年には一時,滝川一益の支配下に置かれたが,本能寺の変で織田信長が没すると,相模の北条氏と三河の徳川氏との間で争奪が繰り返された。豊臣秀吉による小田原攻めの後,小諸城は仙石秀久が領する事になる。天正一八(1590)年のことである。この秀久が没する慶長一九(1614)年までに,現在の様な城構えに改築されていく。以後は徳川幕府の直轄地となり,代々徳川譜代の大名が城主を務めた。
 
■情報

所在地 :長野県小諸市
築城年 :天文二三(1554)年
関連武将:山本勘助,馬場信房,仙石秀久