春日山城

■春日山城散策

上信越自動車道の上越高田ICより、車を走らせて15分くらい経つと、そこは春日山城の麓に到着。IC出た所にも表示があるので迷わずに目的地へ到着出来ました。

春日山城と言えば、急峻な山に築かれた難攻不落の戦国時代を代表する山城。難攻不落と申しても、春日山城自体が、城攻めにあったいう記憶は無い気がします。この城は「山城」という言葉が表す通りに、一山全体を城塞化したのもであり、全てを歩き回るとなると相当な時間を要してしまいます。今回は時間の関係もあり、隅々まで見て回るという事が出来ずに残念です。 (時間については、ここに限らず、他でもよくあることですが・・・)

今回もお世話になったカーナビ。指示される通りに山へ向かって行くと、そこはすでに春日山の麓の様で、「謙信公の銅像」への道標が。そこに数台分の駐車スペースが路肩にあったので、車を停めていざ本丸へ。

徒歩で暫く坂を登って行くと、そこには有名な「謙信公の銅像」が目の前に。ちょっと高台に建っている銅像はやはり写真と違いました。実物をみると「越後へやって来たゾ」という思いが強く成ってきます。 上杉謙信

この銅像の周辺には茶店というか土産屋が数店舗ありますので、水分などの補給はこちらで。

さて、そこから本丸を目指す訳ですが、道順から行くとまずは「三の丸」へ向かって行くとの事です。舗装されていない砂利の坂道を太陽をまともに受けながら登るのは、楽ではないです。やはり山城へ夏の時期に来るのはお勧めできないかもしれません。

汗だくに成ながら登って行くと、木立の間を縫って上がる脇道にそれると、「甘粕近江守宅跡」に足を踏み入れる事に成りました。石碑と案内版だけです。屋敷が合った割には、あまり広い所では無く番所が合ったと言われれば、納得してしまいそうな感じがいたします。

そこから上に道は続いており、端が苔むしている道を先に登って行くと「三の丸屋敷跡」になります。ここには他に長尾三郎景虎の屋敷跡や米倉、さらには戦国当時の土塁なども目にする事ができます。その土塁の奥には「縦堀」が現存しております。ただ縦堀には草が生い茂り、堀としての形をみることは難しいです。

「二の丸屋敷跡」ですが、人が通っていると思われる道以外は、草が生い茂っておりました。説明書きによるとここは、後述することになる「毘沙門堂」や「お花畑」にも道が通じているそうです。春日山城の中心的な役割を担っていたとか。すぐ直上の本丸を護衛する役割をも果たしていたらしいです。この辺りからは北陸自動車道と上信越自動車道の上越JCTを眼下に眺めることができました。

「二の丸」から「本丸・天守跡」へ向かう途中に、「上杉景勝屋敷跡」への道と分かれております。しかし本丸へ行ってから・・・と思っていたら、すっかりその事自体を忘れ下山してしまう失態を演じてしまいました。残念です、また今度、再挑戦です。

汗だらけに成ながらも、「本丸・天守跡」をめざしたの道のり、歩いた距離よりも暑さにまいりました。

その「本丸跡」には「春日山城」が史跡である事を示す碑などがあります。またここからは城下を見下ろすことができます。戦国当時の上杉謙信もここから城下を眺めと思うと感慨深いことです。ここで一息つきたいところでしたが、炎天下であり小休止ができる様な木陰がなかったので、眺望を楽しんだだけで毘沙門堂方面から下山することに。

「本丸跡」から「毘沙門堂」方面へ下る道は、ちょうど「二の丸」の上方を通る感じです。

まずは春日山城跡の休憩所へ行き当たります。ここで一休みを・・・という感じでしょうが、虫が多いこの時期こそ、こういった所は危険なので、早々に立ち去ってしまいました。ちなみに壁にはお祭りに関するポスターや、春日山城イラストマップがなどが貼られておます。

休憩をせずにそのまま進むと「護摩堂」、「諏訪堂」があり、その先には「毘沙門堂」があります。ここには毘沙門天の尊像がありますが、もちろん複製品です。本物というか上杉謙信在世時の像は、上杉景勝の転封と共に米沢へ移ったそうです。この辺りでもって同じ様な毘沙門堂に籠もって、上杉謙信は必勝を祈願していたのでしょうか。その横には「お花畑」なる跡が残されております。この可愛らしい名前、どうやら名前の通り花々を植えていたとか。その花は各堂へ生けられていたという話です。

そこから下って行くと「直江屋敷跡」となります。春日山城の山全体からみれば、ちょうど北側に位置しており、ちょっと広めの平らな地という感じです。ここには直江氏が館を構えていたと伝わっている跡の様です。さてその真実は・・・?

そこから下山してゆくと、「虎口」や「空堀」、「搦め手跡」などをみることが出来ます。ここの「空堀」には戦国時代当時、橋が架かっており、いざという時には落とす手順と成っていたのでしょう。その先には「千貫門跡」であります。春日山城の古地図をみると、必ず門が描かれているそうです。またこの門脇には、二本の空堀が続いてきております。ぱっと見た目には奥に進める道の様ですが、その先は沢になっており危険だとか。案内版に「危険です。奥に入らないでください。」という注意書きが。ちょっと確かめたい気はありましたが、虫などの妨害にあい断念。

そして木で出来た階段を下って行くと、春日神社へ行き着き、上杉謙信の銅像前へと戻ってくることができました。

暑さにやられた城巡り・・・。残念ながらみられない箇所を幾つかありました。やっぱり山城はもう少し涼しい時に見てまわるのが一番です。


 
■春日山城小史

南北朝時代に守護の上杉氏によって築城された。それ以後は代々、守護代である長尾氏が城代となっていた。

戦国時代になり、長尾為景が春日山城代となると、この城を本拠として国内の統一を謀る。それと共に、城を強固に修築し始めたのがこのころである。

天文一七(1548)年には長尾景虎(のちの上杉謙信)が入城し、城の防備はさらに強化されていった。越中や関東への出陣の合間でも、城の留守居に命じて普請をさせていた。

さらにその養子の上杉景勝、その後に城主となった堀秀治も増強していたと考えられる。しかし堀は近世的な平城である福島城を築城したことよって、春日山城は慶長一二年をもって廃城となったそうです。
 
■情報
別 名 :鉢ヶ峯城
所在地 :新潟県上越市
築城年 :室町時代初期
関連武将:長尾為景、上杉謙信、上杉景勝、堀秀治