唐沢山城

■唐沢山城散策

「関東七名城」の一つうたわれるながら、なぜか日本百名城には選抜されることがなかった不思議な唐沢山城。その後、続日本100名城の一つに数えら、面目躍如といったところだろう。

唐沢山城は、栃木県南部の唐沢山一帯を城郭とし本丸を山頂に築いた山城である。現在は唐沢山県立自然公園となっており、また本丸には唐沢山神社となっている。山上を東西に複数の曲輪で構成されている。この城の全域を歩きまわるとなると、かなりの時間を要することが想像できる。 残念ではあるが城の本丸を中心として城の一部について見学をさせてもらった。

なお、車で訪れた場合は山上まで向かうことができ、また駐車場も利用できるため、山の麓から歩いて登る必要はない。

眺望その1 眺望その2
眺望その1 眺望その2

まず向かった先が「天狗岩」と呼ばれる巨石の物見台。「大手虎口」を通り、岩山をよじ登ることでたどり着ける。ちなみに虎口の現在の姿は、舗装されたコンクリート型であり、かろうじてその形を目にすることができる程度だ。

当日は残念な曇り空であったが、晴れて空気が澄んでいれば、ここからの景色は絶景であろう。関東全域を見渡すことができる。当時も城へ向けられた軍勢でろうが、城下近辺を往来する軍勢であっても、この地から確認することが容易であったであろう。

早速、唐沢山神社となっている「本丸」へ進んでいくのだが、その途中に見所も数多くあり、楽しみながらの散策だ。

「大炊の井」という築城の際に湧き出たという井戸が目についた。案内板によると『築城のさい厳島大明神に祈祷をしその霊夢により掘ると水がこんこんと湧き出たとの事である深さ九米直径八米あり今日まで水がかれたことがない』という由緒ある井戸の様だ。

大炊の井 神橋と四つ目堀
大炊の井 神橋と四つ目堀

「神橋」。「四つ目堀」にかかる石橋であるが、城が機能していた当時は曳橋であったそうだ。現在も橋は堀をまたぐ様にして架かっており、立派な石橋として姿が変わっている。また橋下の堀は歩く事もでき、石橋を真下より眺めることも、くぐり歩くこともできる。

「四つ目堀」に沿って北へ向かうと左手側(西側)に「避来矢山」となる。平坦地が三段からなっており、当時jは武器土蔵があったといわれている。

「避来矢山」の東側が城の中枢ともいえる「三の丸」、「二の丸」、そして「本丸」から構成される本城となっているとなっている。

それでは「三の丸」から向かってみた。現在は郭という面影を見いだすのは難しい、思ったがよく見ると周囲には石垣が点在している。また「二の丸」を囲む様にコの字の形状をしている。なお「三の丸」の西側には「帯曲輪」があるが、この両曲輪を合わせて本城の守りとして縄張りがされている。かつては城に賓客をもてなす屋敷があったと言われている。

さて「本丸」へ歩いて向かうと、まず目に飛び込むのが「高石垣」。唐沢山城といえば「高石垣」というほどシンボル的な存在だ。関東ではめずらしい山城の石垣。写真でのみでしか見たことがない石垣であったが、実物を目にすると、その壮大さは写真以上であり感動ものである。南面より眺めていたが、それほど高いというほどでも無いが、その迫力は十分である。

高石垣 高石垣
高石垣 高石垣

石垣のある本丸へ向かうひとつ通路として、本丸の南側に位置している「南城」へと向かった。現在は社務所となっている「南城」だが、こちらも周囲を石垣で囲まれている。また南方への眺望もよく、晴れの日は遠く富士山も眺めらるとか。この「南城」の南側には「堀」や、いくつかの曲輪が連なっていることを確認することができた。

「本丸」であるが、もちろん近代城郭のような天守などは存在していない。周囲の曲輪よりもより高い位置にあり石垣に囲まれており、かつては奥御殿があったとされている。現在は唐沢山神社となっており、藤原秀郷公が祀祀られている。

「南城」から「本丸」の東側を北へ向かうと城の搦め手へと向かうことになる。この途中に城の命ともいうべき水源である「車井戸」を確認できる。さらに北へ向かうことで、いくつかの曲輪を堪能することができるので、そちらへ足を伸ばしてみた。

南城の石垣 車井戸
南城の石垣 車井戸

「本丸」の北側に築かれた東西に延びる「長門丸」。またの名を「お花畑」とも呼ばれている曲輪。弓削長門が直番されたといわれている。ここから東北方面にいくつかの曲輪が堀切で仕切られ築かれている。

本丸よりから「金の丸」、「杉曲輪」、「北城」。 「金の丸」はその名が示す様に、お宝蔵があったと伝承されている。周囲を見渡すと土塁も確認することができる。また「杉曲輪」は、少々手が加えられており、その姿から往時を偲ぶことは困難な曲輪だ。「北城」まで向かえば土塁を確認でき、その先の北側に掘切も確認することができた。それぞれ「本丸」などと比較しても見劣りしない大きさである。

山城ではあるものの、城巡りとしては歩きやすい。つまり整備が進みすぎ、城跡としての魅力については遺構の残り具合から、半減してしまう。周囲の山々をトレッキングしながらの城巡り、神社への参拝ついでというのであれば十分に楽しめることだろう。

 
■唐沢山城小史

築城は平安時代まで遡り、永長五(927)年に藤原秀郷が関東に下向した際に築いたといわれている。
そして室町時代にはいると佐野盛綱が入城。戦国時代になると佐野氏の居城として、さらには北関東の中心に位置していることから相模北条氏や、越後上杉氏に付き狙われる地となった。
永禄年間には上杉謙信の関東侵攻の折りに、軍勢を差し向けられることとなる。しかし落城することは無かった。
しかし永禄七年には降伏して上杉氏の管理下となった。その後も上杉と北条氏の間で争いが続くも、永禄一二年に両氏の間で盟約が結ばれると、上杉氏は唐沢山城から退き、佐野氏が城主として返り咲く。その後北条氏康の子である氏忠が佐野氏の養子となり城主となった。
 
■情報

築城年:永長五(927)年
遺構:石垣、堀、土塁
所在地:栃木県佐野市
関連武将:藤原秀郷、佐野正綱、北条氏忠
アクセス:東北自動車佐野IC(駐車場あり)



>> 「ひろぞう戦国物語」トップへ移動 >> 「史跡巡り」のトップへ移動