岩槻城

■岩槻城散策


冬の寒い日、車で向かった先はさいたま市にある岩槻城址公園。公園という名が付与されているので、子共を遊ばせつつ城趾巡りをという魂胆であった。

こちらは駐車城も整備されており、道に迷うこともないためアクセスも良い立地にある。その昔の岩槻城は沼地に城郭を構える水城であったと、何かの書籍で読んだ記憶がある程度の知識。さてどんな所なのかと思いつつ散策をしてみた。

いざ、という意気込みとは裏腹に、市民の憩いの公園と化した現在の岩槻城。遊具施設も整い、また芝生一帯ではボール遊びに勤しむ親子連れが多く見受けられた。

おそらく往事には沼地であったと思われる芝生を歩き、公園内を一周してみることに。

しばらく散策していると、よく岩槻城のシンボル的な存在として目にすることがある朱色の橋が目に入ってきた。大きめの池に架かる橋、その名は「八つ橋」という。水の上を横断する様に掛けられたその橋上より、春の時候には桜を愛でる人で賑わうことが想像できる。

八つ橋 空堀
八つ橋 空堀


そして向かったのが「鍛冶曲輪」。ここには石碑がそそり立ち、「白鶴城址碑」と刻まれていた。この「鍛冶曲輪」がイメージ的に城跡らしい遺構となっている。外周を土塁、さらには空堀で囲まれている。空堀についてはそこを歩くこともでき、公園散策もしくはサイクリングコースとも成っているようだ。

さらに散策していると、なんの変哲もない散歩道と思われる「ふるさと散策路」には、なにやら案内版が誇らしげに建てられている。そこに目を向けてみると、なんと「障子堀」という文字があった。

現在、遺構は既に地中に埋められておりその姿を見ることはできない。せっかく掘り当てた障子堀であったのに残念だ。さらにこれが戦国時代、小田原北条家に関わる作事であることが証明された物証であるのに。

この岩槻城。戦国時代にも立派に活躍していたが、江戸時代には岩槻藩の藩庁が置かれたちでもあった。その遺構もいくつか現存で確認することができる。

ふるさと散策路にある障子堀 岩槻城城門
ふるさと散策路にある障子堀 岩槻城城門


「岩槻城城門」がその一つ。門の両側には部屋が誂えられている立派な構えだ。こちらが表の門というのであれば、裏の門もある。少々小降りであるが、案内版には「岩槻城裏門」と記されていた。庵の門であるかの様に質素な構えだ。

ちなみに岩槻城というのは、今回訪ね歩いた公園だけでなく、現在は宅地として変貌を遂げた地域一帯をさしている。城内をくまなくアルクとなれば街全体を散策する必要があるわけだ。

今回は岩槻城のほんの一部、さわりの部分を散策したに過ぎない。時間に余裕ができたら、ぶらりと歩きまわりたいものである。



 
■岩槻城小史

扇谷上杉持朝が、古河公方足利成氏に対するため、太田道真・道灌父子によって長禄元(1457)年に築城された。また古河公方に与していた成田正等によって築かれたと説もある。足利氏と上杉氏の争いの中、永正七(1509)年に古河公方の奉行であった渋江氏が城主となる。大永二(1522)年には扇谷上杉方の太田資頼により岩槻城は落城し、太田氏の居城となった。しかし小田原北条氏が武蔵への進撃がはじまり、川越夜戦において勝利を得ると岩槻城が狙われることとなる。永禄七(1564)年、太田氏資が北条方からの誘いに乗じて、父資正を追放することで岩槻城は北条傘下の城となった。同一〇(1567)年、太田氏資が上総の戦において討死すると、岩槻城は北条氏の城代を置き直轄地となる。天正八(1580)年に北条氏直の実弟源五郎が、同一三(1585)年は北条氏房が城主として入城。天正一八(1590)年、豊臣秀吉により小田原攻めに際して岩槻城は、氏房付きの宿老伊達房実が二〇〇〇の兵と共に籠城するが、淺野長吉等二〇〇〇〇の軍勢に攻められ落城。徳川家康が関東入封後、徳川譜代の高力清長が入城。以後、譜代大名が交代で入城するが、江戸中期になると大岡氏が入り、大岡藩として幕末まで続くこととなる。
 
■情報

築城年:文明一〇(1478)年
別 名:白鶴城
所在地:埼玉県さいたま市岩槻区
関連武将:太田道真、太田道灌、太田氏資
アクセス
車:東北自動車道岩槻ICより国道16号経由一五分



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