岩村城

■岩村城散策

岐阜県恵那市の南部,岩村市にある岩村城。別名として霧ヶ城。

中央自動車道恵那ICから車で25分ほど走ると,国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された古い街並みに辿り着く。まずは「岩村町歴史資料館」に車を駐め,岩村の歴史が詰め込まれた資料館を一通り観覧して城巡りへ。

この資料館は江戸時代に藩主邸があった場所に建設されており,太鼓櫓および御殿門が再現されている。ちなみに資料館へ入館するには\400が必要である。

資料館を拠点に,700年の歴史を誇る岩村城の本丸を目指して,小高い山を歩いて登ることになる。本丸へは別ルートで車で行くことも可能だが,今回は登城するための小路が整備されていることもありここから徒歩である。

ちなみに岩村城は日本三大山城(高取城,備中松山城)の一つに数えられ,日本一標高の高い位置にある山城とも言われている。

その登板路の途中は急峻な石畳の坂道となっており,当日は雨上がりということもあり足下が滑り易くなっており少々危険。ちなみに「藤坂の険」と名付けられ,岩村城を死守するに辺り,第一の防御となるそうだ。また一の門までの距離およそ300メートルほど,この急峻な石畳の坂路が続く。

雨に濡れ,滑り易くなった石畳を歩き進むと,大きく左に路がおれてくる。ここで見えてくるのが「藤坂の険」の尾張を知らせる「一の門跡」である。当時(江戸時代)は櫓門となっており,また多聞櫓も連結され常時守備兵が哨戒していたと言われている。

この先に足を踏み入れると一層険しさが増し,山城の中を散策していると実感できる。当日はヤブ蚊(?)らしき虫にまとわりつかれ,甚だ迷惑を被った。虫除け対策が必要であったと後悔。

そして「土岐門跡」に到着。ここでひとまず急な坂路はおわりである。そしてその先の待っているのが「大手門跡」および「畳橋跡」などが遺る,いわば岩村城の玄関である。今は石垣の脇をまわって進むのだが,当時はそのまま石垣上に登り畳み橋を渡っていた様だ。

「畳橋」とは通常は橋を架け通行できるのだが,有事の際には橋を畳み,先への進入を拒むことができる画期的な橋である。

この辺りまでくると積み上げられた石垣に目が奪われる。だいぶ苔で覆われているが,何時の時代のモノであるかは定かではない。また石の積み方が異なった石垣を同時に観賞することが出来る。

またしばらく坂路を登ると視界が開けてくる。その両側にはある曲輪が侍屋敷あとであろうか。雑草が元気よく茂っていたので端までいくことは諦めることにした。その先にある八幡曲輪も同様である。季節が異なっていれば隅まで歩いていったに違い無い。残念である。

そして道端に見つけた一つの井戸。どうやらこの城の別名を「霧ヶ井城」の由来となった伝説の井戸らしい。この井戸に秘蔵の蛇骨を投げ入れると,城全体を霧で覆い隠してくれたと言われている。また井戸の水は今も枯れることなく,岐阜県の名水五〇選に認定されたとか。

その先の路は右手に「菱櫓」と名付けられた,高石垣を見ながら本曲輪を目指すことになる。ちなみに「菱櫓」とは地形に合わせて石を積んでいき,結果的にそのカタチになったと言われている。その石垣の上に立てられた櫓も菱形であったとか。自然の地形を利用した城作りであったことが伺える。

本丸の石垣が見えるのは,そのすぐ先である。そのまま本丸を通り過ぎると,城の「帯曲輪」を通り「出丸」まで歩くことができる。「出丸」が駐車場代わりとなっており,車でこの地点までこられるのだ。

この「本丸」の石垣はまっすぐ高く積まれているのでは無く,六段に積まれており,「六段壁」と呼ばれている。岩村城の特徴の一つとして語られることが多い。この石垣は江戸初期に積まれたそうだが,この時は他の城と同様に壁の様に,高く積み上げられていた様だ。しかしその後に幾度か修復され,現在のこの様な形になったと伝えられている。

この石垣に囲まれた「東曲輪」から,石段を登り本丸へと歩いていくことができる。

「本丸」には城名の碑があり,また「昇竜の井戸」が確認できる。「本丸」の東側には「出丸」が見え,眼下には帯曲輪が控えていた。こちら側の石垣は先の段壁にはなっておらず,まっすぐ上方向に積まれている。また日本三大名城の一つであるとか,織田信長が本能寺で討たれる八〇日前に宿営した城という案内板が確認できる。どんな気持ちで岩村城で過ごしたのだろうか。

この城は遠く戦国時代,女城主として織田信長の叔母であるおゆうの方が,采配を振るったとして知られた城である。また彼女と武田家の将,秋山信友との悲哀の話が今なお語り継がれている。 山城でありながら「土」ではなく,「石」を用いた石垣が主役となっており,中世では無く近世の臭いが感じられた城の散策であった。

 
■岩村城小史

鎌倉時代,文治元年(1185)年に加藤景廉により築城される。景廉の子である景朝の代に美濃遠山庄に移り住み遠山姓を名乗る。元亀元(1570)年,城主であった景任は武田信玄に攻められるがこれを防ぐ。しかしその翌年景任が病没。織田信長の五男を養子に迎え,遠山氏を継ぐが采配は未亡人おゆうの方が振るっていた。元亀三(1573)年武田方の秋山信友に攻められ降伏。おゆうの方は信友の室となる。天正三(1575)年織田信忠の軍勢に攻められ,秋山信友夫妻は助命を条件に降伏し落城,しかし夫妻は長良川河川敷で逆さ磔の刑で処刑される。織田家統治時代,河尻秀隆から森蘭丸,長可,忠正(と伝えられている)と城主が変更されるが,城代として各務兵庫助が城を整備する。本能寺の変後は田丸直昌が入城するが,関ヶ原の合戦で石田方に就いたことにより改易。徳川家康は松平家乗を城主に据えた。家乗の時代に城下町が整備された。
 
■情報

所在地 :岐阜県恵那郡岩村町
築城年 :文治元年(1185)年
関連武将:加藤景廉,秋山信友