岩櫃城
■岩櫃城散策
真田の上州(現群馬県)の拠点として、天険の要害を誇った山城。今まで城の南側を通る国道145号から見上げる程度であったが、大河ドラマの影響もあり、この機会に重い腰を上げて訪れてみた。
そもそも岩櫃城は岩櫃山に築かれた城であり、現在でも岩櫃山は登山の名所として、多くの人が訪れている様だ。登山口にある駐車場は思った頼も広く、また平日であるにも関わらず、多くの車が駐められていた。
また大河ドラマ「真田丸」の反響の大きさからか、登山口には案内所が設けられ、多くの観光案内が用意されていた。多くの人が登山以外での目的、城巡りなどで訪れることが想像出来る。
ひとまず岩櫃城関係や真田関連のパンフレットを頂き、用意を調えてから、いざ岩櫃城の本丸へ。
「岩櫃山登山口」と共に「岩櫃城跡」という石柱がまずは迎えてくれる。
岩櫃城入り口
中城
なだらかな傾斜なクネクネ路を歩んでゆくが、まずめざすは「中城」と呼ばれる曲輪だ。「中城」の手前で「竪堀」が通っていることを確認できる。 さらに進んだ先の拓けた地が「中城」だ。
今はどういった「曲輪」であったのか想像するしかない。現状はなだらかな傾斜はあるものの、本城の中では比較的広めの曲輪だ。 また南側斜面を見るに、現在では木々が植林されてしまっているが、こちらはかなりの傾斜となっているのが分かる。
「中城」を後にすると、道が分かれている。山上の「本丸」か、それとも「殿邸」へ向かうのか。今回は「中城」を迂回する様にして、「二の丸」を経由して「本丸」へと辿り着く道を選択した。「本丸」へと向かうには「中城」の脇に備わる急峻な階段を登って「二の丸」へと向かう必要がある。
ちなみにこの傾斜な路。どうやら「竪堀」の跡のようだ。この「竪堀」を登り切った辺りには「横堀」が備わってる。さらに鉤の手状になって、その「竪堀」が続いており、歩きながらもその城の構造を知る事が出来る。
中城脇にある竪堀の路
本丸から見下ろす竪堀
「二の丸」からは、かつては存在していたと考えられる城下の街並みが望めたのだろう。「本丸」とは小さめであるが「堀」を隔てて存在して独立した曲輪と成っている。
「本丸」へ向かう前に、南側斜面へと足を踏み入れた。「帯曲輪」となっており、現在では榛名山だろうか、山並みを確認することもできる。なお南側へ向けてかなり傾斜になっていることも伺える。また西側には「本丸」から続く、大きな「竪堀」も確認することができた。そういえば「岩櫃城」には多くの「竪堀」が見られる。今では休憩するベンチなども用意されており、腰を下ろして一息つくことも可能だ。
さて「本丸」である。岩櫃城本丸址の碑が起ち、脇には岩櫃城の由来を記した看板も用意されている。今は木々に被われ、その全容を確認するのは素人からすれば至難である。端々まで歩くと立て札があるのでそれを参考にして、構造を確認してみると、南側には「虎口」があったことが伺える。「南枡形虎口」と名付けられており、その脇にある「腰曲輪」と共に想像力を働かせて往時の姿を思い描く。
岩櫃城本丸
腰曲輪
この「本丸」よりも西へ向かうと、岩櫃山の山頂を目指すことなる。その麓に「潜龍院跡」と呼ばれる、かつて真田昌幸が武田勝頼を迎え入れようと準備した館跡があるが、それはまた後にする。
折り返しで向かったのは「北枡形虎口」である。ここから城の北側へ廻ることが出来る。先に通ってきた路とは木々が鬱蒼としげり、雨上がりであるためか湿気を含んだ空気の中の散策となった。
細い山道を「本丸」より下ると、「木戸跡」という立て看板がめについた。木戸が建っており、ここからの侵入者を拒み、外部への出口とも成っていたのであろう。
岩櫃城木戸跡
本丸を見上げる
そして「水曲輪」。その名の通り城の生命線とも言える「飲料水」に纏わる曲輪なのだろうと想像できる。井戸があったのか、それとも池からの水酌み場であったのか。この辺りで南側斜面へ目を向けると、頭上に君臨している「本丸」を確認することができる。ここから一気に「本丸」へ駆け上がることなどはまず不可能であろう。その傾斜が来る者を拒んでいる様に思えて成らない。
北側を散策していて、もっとも目についたのが「二の丸」あたりより降りてきている「竪堀」だろうか。まさに「岩櫃城」を象徴している遺構であることは間違いないだろう・・などと勝手に思ってもいた。
竪堀
潜龍院跡
他にも見所はあるだろう。「天狗丸跡」と言われる地には岩櫃神社があり、今は果樹園となっている「館跡」など。散策すればするほど満足度が高まる地だ。今回は一通りある歩いた後に車で移動したのは「潜龍院跡」。手前にある駐車場を利用してあるくこと10分ほどで到着する。
「潜龍院跡」は城の西側にあり、この地に武田勝頼を甲斐より迎える準備していた様だが、今ではその面影は石垣を残すだけ。それでも、歴史に「もしも〜」を語っては切りが無いが、もしも勝頼がこの地へ落ち延びてきたら、真田の運命も変わっていただろう。
■岩櫃城小史
江戸時代に編纂された「加沢記」によれば、吾妻郡地域を支配した斉藤氏によって、応永一二(1405)年に築城されたとなっている。斉藤氏が越後上杉家に属していたことで、敵対する甲斐武田家により永禄六(1563)年に攻略されたと言われている。なお斉藤氏は武田家の先方衆であった真田幸隆により、吾妻郡一帯から駆逐され武田家の支配下に置かた。城主となった真田幸隆により上野侵攻の足がかりとなる。以後、城主は真田昌幸、真田信幸と受け継がれてゆく。慶長二〇(1615)年、徳川幕府の「一国一城令」により破脚される。
■情報
築城年:不明
所在地:群馬県吾妻郡東吾妻町
関連武将:真田幸隆、真田昌幸、真田信幸
アクセス:関越自動車道 渋川伊香保ICから40分
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