石垣山城

■石垣山城散策

天正一八(1590)年、豊臣秀吉は小田原攻めを行い、北条氏を降して天下統一が果たせた。小田原城は戦国時代、天下に名高き堅城として知られている。豊臣秀吉はその城を大軍でもって囲み兵糧攻めの姿勢を見せ、自らは小田原城西方に位置する高台に簡易的な城を建築し、北条勢を見下ろし、さらには見方の士気を高めていた。

その時に笠懸山に築城したのが石垣山城である。

国道1号から道を折れ、なだらかな道を登って行くと、そこが石垣山城の史跡になっていました。目の前には広々とした駐車場も確保されており、便利な城跡です。さっさと駐車して、城散策へと向かいました。

電車を利用する人は、JR早川駅から登ってくる途中にある、小田原攻めに参陣した武将たちの説明書きのある看板を、見ながら巡るのもよいでしょう。

入り口は、うっそうとした木々の間に入っていくイメージ。そこから石段をちょっと登ってゆくと、ゴツゴツとしたでかい岩が転がっているのが、目に付きます。 どうやらそれらは石垣として組み立てた石の様です。

そこから先に進んで行くと、緑の芝に覆われた「二の丸」に出ます。陽気の良い時にはここで弁当でも広げて、くつろぎたい気にさせてくれます。その「二の丸」から一段高いとことに位置しているのが、「本丸」になるそうです。

「二の丸」から眺めると、「本丸」は展望台も兼ねている様で、大勢の観光客によって占められています。

とりあえずはその「本丸」へ向かうと、ここも広々している所であり、木々も多く涼しげな感じがします。やはりこの辺りで宴を催していたのでしょうか。

井戸曲輪 ここは「二の丸」と違い多くの人がおり、遊び回る学生の姿や、話に華を咲かせている団体、犬の散歩をしている人々など。先ほどみた展望台は占拠されっぱなしでした。脇を抜けて見た眺めは相模湾を一望でき、築城当時の豊臣秀吉もここから、小田原城を眺め降ろしていたのでしょう。

この「本丸」の奥には天守台あとがあるのですが、今はひっそりと存在しています。

こんどは「井戸曲輪」を目指してみる事に。「二の丸」からは少し低い所にあり、らせん状の石段を下りていくと、そこは周りを石垣でもって囲まれた井戸になっております。他とは違った雰囲気でした。石垣に四方を囲まれた圧迫感は、なかなか味わえそうもありません。また、ここだけは他とは違って当時のまま残っているのでは、と思うほど。あまり手が加えられていない様にも思われます。

最後に「西曲輪」へ向い石垣山城散策を終了しました。ちなみにこちらも芝で整備されており、そのまわりを木々によって覆われている形を目にできます。

それにしても天守閣が無いお城跡で、観光バスで乗り付けるほどにぎわっているのは、珍しいと思われます。また、豊臣秀吉と伊達政宗が連れションをしたのは、どの辺りだったのかが気になりました。

 
■石垣山城小史

天正一八(1590)年に豊臣秀吉による小田原攻めの際に築かれた城である。城普請にはおよそ80日かけたが、小田原の北条方に知られることなく築城した。秀吉は城の外観が完成したのを見計らい、付近の木々を伐採。小田原からは一夜にして城が出現したと思わせる演出である。このことから「太閤一夜城」と後生に伝えられている。
 
■情報
所在地 :神奈川県小田原市
築城年 :天正一〇(1590)年
関連武将:豊臣秀吉