鉢形城

■鉢形城散策

関東地方の城をもうちょっと見てみよう。 と思ったのが、鉢形城を訪れるきっかけでありました。 鉢形城は天正一八(1590)年の所謂、豊臣秀吉の小田原北条攻めの際に落城した城の一つです。
現在も当時の遺構が残っており、発掘調査も行われ、一部は復元されてます。

車を利用して現地へ向かう際には、「鉢形城歴史館」を目安に行くのがよさそうです。 駐車場も広く確保しており、¥200で資料館を見学することもできます。 難点といえば内容的に、特別に目を引くモノが少ないこと。
ただ鉢形城の歴史については、本場だけあってわかりやすく説明されてます。

現在は「鉢形城公園」となっている城趾。 歴史館でちょうだいしたフィールドマップを眺めるとかなり広大な土地です。

さっそく歴史館を起点として鉢形城散策をはじめることに。
散策する道は舗装された遊歩道になっており、雨上がりであってもぬかるみでないので安心。 とはいっても歴史館の周りの道のみであり、他は城跡の雰囲気を味わえる道です。

歴史館の辺りの場所は城の「外曲輪」になっており、「土塁」で囲まれております。 何もかかれていなければ、ただの土手にも見えてしまいますが、当時から残っている遺構の一つの様です。 またこれらの「土塁」は至る所で目にすることが、城趾のいたるところで目にできます。

深沢川を渡り、城の中枢だったところへ。

「二の曲輪」は広々としており、一面芝が茂っておりました。 広々とした公園。
こういうところは冬ではなく、青々とした芝が見られる夏に見たいものです。 おそらくここは発掘調査が済み、整備しなおしたのでしょう。
この「二の曲輪」と西方にある「三の曲輪」との間には、「土塁」とさらに「畝堀」で仕切られてます。 「山中城」ほどでは無いですが、この城でも「畝堀」が見られます。 小田原北条家特有の城の普請と言われる「畝堀」。 これが存在している堀をみると、この城が北条家によって普請されたと納得できます。

「三の曲輪」には復元されて真新しい「四脚門」が待ちかねていたように佇んでました。 聞くところによると、新しいわけで昨年に作られたものとか。 新しい訳です。
さらに戦国当時の石積みを再現した、「石積み土塁」が目を愉しませてくれます。 江戸時代のモノとは異なり、「土塁」に対して石を積み重ねていく形。 こちらも再現されたばかり様です。
またこの曲輪には大砲(?)もなぜだか再現して、設置されてました。 大砲の前には北条家の家紋である「北条鱗」が表示されてます。 その北側に位置しているのは「秩父曲輪」と言われており、現在は「四阿」という休憩所が真新しい姿を見せていました。

これら「二の曲輪」「三の曲輪」の南側は「逸見曲輪」そして城の大手だった箇所になります。 そして「弁天社」もこの辺りにあったそうです。

「御殿曲輪」や「本曲輪」跡は、周りを「堀」や「土塁」で囲んであり、また北側は荒川が流れており断崖絶壁です。 ちなみに「本曲輪」にはこの地が本丸である事を示した石碑が建っておりました。 この付近を対岸から眺めるのも、景色がよいものです。
天正一八(1590)年の小田原攻めの際、この辺りに陣取ったのが北陸方面軍に属していた、真田昌幸などの武将だったとか。 それとほぼ同じ情景を眺めるのも良いモノです。

またこの辺りには様々な木々が植えてあり、資料によると680種もがみられるとか。 「搦め手」辺りには鉢形城を1/250で再現した彫刻(?)の様な、模型の様なものがありました。 ここでみるなら歴史館にある模型の方が、当然ながら分かりやすく精巧にできてます。

 
■鉢形小史

文明八(1476)年頃に、山内上杉氏の家臣であった、長尾氏により築城された。永禄年間になり北条氏康の息子である氏邦が入城し、城郭を現在の形に縄張りし直した。北条氏の北の起点として、甲斐武田家および越後上杉家に備えていた。天正一八(1590)年の小田原攻めの際には、前田利家や上杉景勝などの大軍を相手に三千の兵で抵抗したが、一ヶ月後に降伏し開城した。
 
■写真



 
■情報
所在地 :埼玉県大里郡寄居町
築城年 :文明八(1476)年
関連武将:長尾景春、北条氏邦