後閑城

■後閑城散策

群馬県にあるこのお城。行く予定はなかったのだが,地図でみつけて「公園」と後ろについていたので,気軽にいってきたのが後閑城。

車で訪れたのだが,どうやら西と東側から楽しむことができるそうだ。ちなみに今回は西側から城を訪れた。ちょうど車をおいた場所が西第三郭と呼ばれていた。そこからスタートとなった。

道なりに進むと主郭(本丸)を目指すことになる。主郭(本丸)へ向かう途中,右手には西第一郭,そして西第二郭と段々となっているのが手に取る様にしてわかる。

駐車場となている郭も含めると三段構えということだろうか。

ここまでは芝がよく手入れされていて,下手に近所の公園へ行くよりも過ごしやすい気がした。そしてこの地にはバッタが多いのが気になったのだが,これは季節柄なのか。それとも東京で見ないだけなのだろうか。懐かしい思いでもあるが,踏んではしまわないかとビクビクである。

主郭(本丸)には庚申塚とよばれる石碑が,多数立ち並んでいて,ちょっと異様な雰囲気が漂っている。しかしここからの眺めは良いモノです。正面に妙義山,榛名山が眺められ,さらに城の全体を見渡すこともできる。

次に向かったのが東郭。城の東側にあり,主郭より一段低くなっている。ここから北堀切,東郭郡へ向かえるのだ。この郭も芝が茂っており,寝っ転がりたい衝動に駆られてしまう。ここは我慢して端から歩き回ってみた。

そして大堀切を乗り越えて,次の二の丸へ向かった。そこには物見櫓が再現されており,自由に登ることもできる。また奥には東屋があった。しかしここらには蜘蛛という生物が巣を張り,獲物を待ち受けているので要注意。

余談ではあるがこの城址にある郭の端の方,あまり人が近づかないの木々には,でかい巣が作られていた。

さらに東側には小さな郭が棚田の様にして存在している。東側の駐車場のすぐ真上である。下って行きそして登ってくる。体力勝負の城巡りであった。

東郭へ戻り,向かった先が城の北側。北郭である。本郭から北に向かって,三つの大きな堀切が存在している。その二つめと三つめの堀切に守られているのが北郭である。これらを第一北堀切,第二北堀切,第三北堀切と名付けられていた。

この北郭。西側にも東郭と同様に棚田の様にして,小さめの郭が段々に築かれている。ここを一回りする頃には疲れ果ててしまい,普段からの運動不足を痛感。

そして最後に向かったのが南郭。訪れた当日は二の丸から南郭への通路が塞がれていた。台風の影響だろうか。それとも別の理由だろうか。

西郭より南郭へ向かう。途中に野草園と名付けられた場所があり,その先に目的の南郭がある。ここの郭にも東屋が存在。この城址ではよく目にするモノである。

 
■後閑小史

依田忠政が嘉吉元(1441)年ころに築城したと言われている。弘治二年新田信純が城主となり,箕輪城主長野業政の旗下に入った。永禄二(1559)年に長尾景虎が上杉憲政の懇願を受け,関東へ出陣してくると,甲斐の武田氏を頼り幕下となる。武田信玄が箕輪城を落とした後,永禄十(1567)年に後閑(新田)信純が城にはいった。 天正一〇(1582)年武田氏滅亡後,信純の嫡男信重は上杉方の北条高広に従い,次男重政、三男信久は小田原の北条氏に従う。後閑氏は城を出ることになる。天正十二年(1584),松井田城の大道寺政繁の支配下となるが,北条氏が豊臣方に降伏をするとそのまま廃城となった。
 
■情報

所在地 :群馬県安中市
築城年 :嘉吉元(1441)年
関連武将:依田忠政,新田信純