古河公方館跡
■古河公方館跡散策
古河総合公園内にある古河公方館跡。
そもそも古河公方とは誰のこと?などという疑問を思う人もいるかもしれない。正直に告白すると分かっている様でいて、理解していないのが関東地方の歴史。自分だけかもしれませんけど。
古河公方を理解するには、それはそのまま関東地方の中世史を勉強しなおす必要があるようだ。
ここで講釈を行うには知識が無く、少々長いはなしになりそうなので省略することに。簡単に説明を入れると、享徳の乱によって鎌倉公方であった足利成氏が古河へ居を移るのですが、ここから古河公方の歴史がはじまるのです。それから130年、五代目にあたる義氏の逝去をもって古河公方の歴史が閉じられたということ。
こんなんじゃ何もわかりませんね。別途、関東の歴史は勉強しなおします。
さて古河公方館跡というのは、初代の古河公方足利成氏によって築かれた城(城郭というよりも館ではないだろうか)のこと。平成の世になるとその面影をみることは皆無である。
石碑
御所の森の遊歩道
ここの池、これは御所沼は当時と比較すると相当に小さく、その姿が変化しているという。これは埋め立てを行った地を、平成八年に掘り起こして復元したというのだ。姿形は別物といってよいだろう。
そして御所沼に囲まれた御所の森は本郭ではないかと考えられているそうだが、これもさだかではない。ただし一部に土塁らしきものが現存していることは発掘調査において判明しているという。
今は公園の一部として城跡ということをひっそりとアピールしている古河公方館跡。ここを目的に来る人はきっと少ないと思われる。いつか光が当たる時がくるのでしょうか。公園としてはよいところなんですが、史跡という雰囲気はあまりないですね。
■古河公方館跡小史
古くは応永年間より北関東の政治的な拠点からはじまり、享徳の乱に際して古河公方の足利成氏により軍事目的で城として築かれた。古河城の南東約一キロほど離れた地にいちしている。小田原の北条氏綱の息女が足利晴氏に嫁ぎ、最後の古河公方となる足利義氏が誕生する。天正一八(1590年)に古河城より当館へ移った義氏が没すると、その娘である氏姫が館主となった。氏姫の孫にあたる尊信が、古河城にうつったことにより当地は十念寺の寺域の一部となった。
■情報
築城年 :????
所在地 :茨城県古河市
関連武将:足利成氏
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