越後荒戸城

■越後荒戸城散策


二年越しの城巡りとなった越後荒戸城。前回の時は残雪により城跡へ足を踏み入れることが出来なかった。しかし今回は満を持して、雪が消えて無くなった頃を見計らい城跡へと向かった。

関越自動車の湯沢インターチェンジより、国道17号三国街道を通り、芝原トンネル脇の林道を進むと、荒戸城への登頂口が見えてくる。駐車スペースも若干ではあるが用意されているので、利用することが可能だ。

入り口となる登頂口には荒戸城の概略や、略図が掲示されているので、念のため一読しておこう。

荒戸城登頂口 虎口からの眺め
荒戸城登頂口 虎口からの眺め


登頂口より歩むことおよそ10分ほど。目の前に姿を現したのは土で出来た城跡。荒戸城の「大手」である「北虎口」だ。その先には「北曲輪」、さらに奥には「本郭」土塁が土の壁となり聳えており、さらには囲む様に堀を確認することが出来る。

大手とも言える「北虎口」。小さな山城という想いであったが、ここにはずいぶんと立派な堀が健在だ。「馬出し」の役割も担っていそうな「虎口」であるが、堀を眺めているとこの「虎口」の重要性が感じられた。

この「北虎口」より「二ノ郭」への郭へ移動するには、「竪堀」で仕切られた土橋を渡ることとなる。この「竪堀」も大きく立派に遺ってたことに感謝。あとで調べるとこの城の東側斜面には、この様に畝状の竪堀が幾本か掘られているそうだ。

そうした中で早く次が見たいという衝動を抑えながらも、ちょっと早足気味に歩み「二ノ郭」へ到着。ここから西側には「三ノ郭」が見えるが、その間は分断されている。

本郭の土塁 本郭
本郭の土塁 本郭


「二ノ郭」から「本郭」へはスロープ状となっている道を登ることでたどり着く。この「主郭」は思った以上に広々としていた。周りを「土塁」に囲まれ雰囲気が出ていることに気がついた。しかし個人的に天敵でもある虫、その中でも苦手な大きめのハチに遭遇してしまい、弱腰となった為に「本郭」を隅々まで歩くことを断念。

気を取り直して向かったのが「三ノ郭」。「二ノ郭」から大きな「堀」へ一旦くだり、そして「三ノ郭」へ東側より進入。足下が滑りよろけながら、幾度か転びなんがなんとか到着。 「三ノ郭」は「三日月堀」か?と想ってしまう様に、郭を囲む様にして「掘」がぐるっと半周している。さらに隣接しているのは「主郭」である。「三ノ郭」から南側を迂回することで「主郭」への進入路となっている。

左側が三ノ郭 三ノ郭を囲む堀
左側が三ノ郭 三ノ郭を囲む堀


再び「主郭」戻ったが、あのハチを思い出し、すぐさま「三ノ郭」へ退散。「三ノ郭」を名残惜しむ様に歩き回り、元来た道へと戻るのであった。

以前、雪に覆われていた荒戸城であるが、この城へは雪が積もっていたら歩き回るのは困難だろう。というより無理だというのを感じた。訪れたのは関東地方で梅雨入り前の五月下旬、それでも所々に残雪を見られる荒戸城。雪深い上越国境を実感させられる荒戸城の散策であった。

 
■越後荒戸小史

天正六(1578)年、上杉謙信の死により上杉景勝と上杉景虎による家督相続(御館の乱)に内乱が起きる。その際に上杉景勝が関東から北条勢の侵攻を抑える為、上田衆に命じて築城させた。しかし同年八月、北条氏照の軍勢により陥落。翌七(1579)年、御館の乱が収束の兆しが見えた頃、上杉景勝方の軍勢によって城は攻略され、北条方より奪い返した。以後、上田衆を城番に据えて街道の監視に当たる。しかし上杉景勝が会津へ転封となった慶長三(1593)年、荒戸城は廃城となる。
 
■情報

築城年 :天正六(1578)年
所在地 :南魚沼郡湯沢町
アクセス
車:関越自動車道湯沢ICよりおよそ10分



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