龍造寺隆信 亨録二(1529)年〜天正一二(1584)年
武将列伝
肥前の熊こと隆信は、幼少のみぎり一時期だが仏門に帰依していた。隆信が17歳の時に、還俗して家督を継いだらしい。しかし土橋栄益により筑後へ追放されが、およそ3年後に元の地へ戻る事ができ、なんとか龍造寺の家名は残すことができた。戦国の世を生き抜くには、有能な家臣が必要であり、それを養う為の領地を必要であった。隆信には鍋島直茂という、知勇に秀でた武将を抱える事ができ、また肥前一国を統一するまでは、それほど時間を必要とはしなかった。有馬家などを瞬く間に降し、北九州きっての大名となった。同じ北九州には大友家があり、何度も相争うこととなる。この大友氏との争いは、熾烈極まりなかったが、龍造寺家が勝利を得て文字通り北九州の覇者となった。しかし南九州地方を有する島津氏にそそのかされた、有馬氏は龍造寺氏を見限り、島津氏に奔ってしまう。鍋島などの家臣は反対したが、隆信は討伐軍を編成して、これの討伐へと向かった。しかし有馬氏には島津からの援軍があり、気づいたときには島津勢の鉄砲隊の前に惨敗であった。肥前の熊とおそれられた、隆信の最後である共に、龍造寺家の最後でもあった。
六角 義賢大永元(1521)年〜慶長元(1596)年
武将列伝
六角家は先祖が近江源氏佐々木氏という近江地方の屈指の名家である。最盛期には近江はもちろんだが、畿内でも三好氏と勢力を二分する勢いがあった。永禄元(1558)年には三好氏と対立する足利義輝を擁立して上洛を果たす。その翌年の永禄二(1559)年に家督を嫡男の義治に譲り隠居し、出家をして承禎と号した。しかし永禄六(1563)年に起きた世に言われる「観音寺騒動」をきっかけとして、没落の一途を辿ることとなる。北近江も浅井氏の統治下に置かれ、領国としてはわずかに南近江を残すのみであった。そんな中、永禄一一(1568)年に足利義昭を擁して上洛してくる織田信長と対立。しかし織田勢により観音寺城は陥落。義賢は領土を失いながらも甲賀郡へと敗走する。その後は浅井氏等と共に再三にわたり織田勢と争うが、天正元(1570)年に降伏する。
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