承応元年(1652年)、江戸の人口急増と急速な市街地の拡張による飲料水の不足を解消するために、幕府は玉川兄弟(庄右衛門、清右衛門)に、上水の開発工事を命じます。翌年、上水が掘り始められ、約8ヶ月の工事を経て、承応三年(1654年)に玉川上水は完成しました。

難工事のため、途中で資金が底をつくという事態に直面するも、工事を請け負った玉川兄弟は、自らの家を売り、手にした資金を上水工事のためにつぎ込み、玉川上水を完成させました。その労が認められ、上水の管理は玉川家の世襲とされ、元文四年(1739年)に幕府直轄となるまでその地位が受け継がれました。

玉川上水は、江戸市中に飲料水を供給するという本来の目的以外にも、武蔵野台地の各地に分水され、飲料水・灌漑用水・水車の動力などとして、武蔵野台地の開発に大きな役割を果たしました。

この玉川上水を歩いてくだり、玉川兄弟の苦労、江戸時代の風を感じてみようと思います。それでは、いざ、しゅっぱーつ! で、ござる。

 

1.2009.12.2 羽村堰→福生橋 


遊歩道に設置された看板を撮影。とってもわかりやすくて素敵です。

陣屋跡。スタート地点です。茅葺の門が残されています。

GPSデータ

陣屋跡の門の少し下流側に、東京都水道局
羽村取水所があります。江戸時代にはここに
陣屋の建物があったのでしょうか。

陣屋跡。ここから玉川上水がスタートです。
幕府の役人が取締りのため常駐していました。
手前は玉川水神社。東京水道の守護神として、
承応2年(1653)玉川上水完成以来祀られてい
ます。
 

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第2水門の下流側。多摩川から取水された豊富
な水が勢いよく流れ下ります。

 
羽村橋から上流の眺め。この下の第3水門で
取水された水の一部がが、この導水管を通って
上流の小作浄水場へと運ばれます。

   


羽村橋の大ケヤキ

 

↓ 第3水門の上流側は、堰きとめられた水を豊富に湛えています。
 
左岸の水門で取水され村山貯水池(多摩湖)
へと送られます。

水門直下の貯水池。この下に羽村導水ポンプ
所があり、小作上水場へ送られます。
貯水池の先が玉川上水。

 

第3水門の下流側では水量が大幅に減り、表情が穏やかになります。










 




 
玉川上水旧掘跡
新堀橋付近は、左側から山がせり出してきたところを掘り抜かれており、橋は上水面よりもかなり
高いところにあります。玉川上水が開削された当初は、この山を避けてもう少し南側に上水が
設けられていましたが、多摩川の度重なる出水による土手の崩壊で、上水の通水が困難となる
事態が生じたため、元文5年(1740)に現在の位置へと付け替えられました。

 


宮本橋付近。玉川上水に沿う奥多摩街道








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                       清厳院
玉川上水のある段丘面のひとつ下にあります。
ハケ下から湧き出す水は、たちまち美しい池と
なります。『東京の名湧水57選』のひとつです。

 


熊野橋から下流を臨む

 

牛浜橋から、玉川上水の両岸は住宅地となり、水面を見ながら歩くことはできなくなります。
やむなく南側の奥多摩街道を歩いて進むと、前方に「熊川分水取水口」と書かれた青い看板が
目に留まります。矢印に沿って小さな道を行くと、ようやく玉川上水が現れました。

熊川分水は、明治23年に完成した比較的新しい分水です。詳しくは、
福生市観光協会のwebページ『熊川分水の起こり』を参考にしてください。
 

熊川分水取水口から奥多摩街道にもどると、   
そこは段丘のはしっこで、道路わきに取り付けられ
た階段を下りると、ハケの下にたどり着きます。  
ハケの下は「ほたる公園」として整備されています。
紅く色づいたもみじの下で、のんびりくつろぐ 人の 
姿がありました。遊歩道もあり、ウォーキングに  
もってこいです。                     

 

今日のゴール福生橋 約5キロの道のりでした

 


熊川駅から帰途に着きました

 

第1回はこれにて終了

第2回は福生橋から清願院橋(玉川上水駅)までです

 

秋の羽村堰 青空に蜻蛉を追う

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