太田川 2025.7.28〜29

太田川でカヌーをしたのは1999年7月17日。その約3週間前の6月29日に広島地方は集中豪雨に見まわれ、多くの被害がもたらされました。カヌーからも、山腹から川に向けて、彫刻刀で鋭く削り取られたような土石流の跡が見られました。洪水や土石流といった災害が多く発生してきた太田川流域ですが、2016年8月20日、記憶に新しい豪雨災害が発生しました。死者77人、住宅全壊179棟という大災害です。この災害について良く知りたいと思い調べると、広島市が「水害碑が伝えるひろしまの記憶 過去が教えてくれること」という資料を公表していることがわかりましたので、この資料を参考に、慰霊碑を訪ねて回ることにしました。


「水害碑が伝えるひろしまの記憶」PDF
へリンク。15〜25を訪ねました

当初は電車とバスを駆使して見学する予定でしたが、ありがたいことに現在広島に住んでいるくぼっちが案内役を買って出てくれたので、くぼっち車でぐるぐると広島市内を駆け回りました。

 

1.祇園・緑井地区

最初の目的地は、祇園小学校敷地内にある「広島土砂災害」碑ですが、その前に祇園新橋に寄り道。この橋の上を歩くのは初めてです。橋の中ほどから下流側を見ると、青空と川面の間に広島市内のビル、その先には宮島が見えます。真ん中の青色をした大芝水門のあるところで、太田川は旧太田川(本川)と太田川放水路の2筋に分かれます。ここから先はデルタ地帯となり、最終的には6本の流れとなり広島湾に注ぎます。


青い大芝水門のところで二つに分かれます

ここ祇園新橋辺りの水深はごく浅く、橋の上からは、何匹もの大きな魚がゆっくりと泳いでいるのが見えます。ボラでしょうか。

 

JR下祗園駅近くのショッピングモールの駐車場で下車。くぼっちが買い物をしている間に、私は歩いて祇園小学校に行きました。最初の訪問先であり、ドキドキしながらインターホンを押し来意を伝えると、「どうぞ」とのことで安心して敷地内へ。伝承碑は、正門から入ったすぐ右側にありました。プールの土台となるコンクリートの壁に、H26.8.20と書かれた下に黒い一本の太い線が引かれてます。その横に「広島土砂災害」と書かれたプレートがはめ込まれ、隣の黒い線と同じ高さに赤い線が引かれ「地上62p H26.8.20冠水」と記されています。62pというと、私にとっては股に近い高さ。この辺りは平らな土地が広がっているので、辺り一面同じ高さの泥水が埋め尽くす泥の海。大洪水を思い浮かべるとぞっとします。

  

 

続いて緑井の八敷公園(緑井第八公園)。公園の端、山を背にする様に「土砂災害記念碑」が建てられ、この地で10名の尊い命が失われたことを伝えています。すぐ隣に、枕崎台風洪水水位の碑も設置されています。枕崎台風は、被爆直後の広島の街に洪水をもたらし、市内の川に放置されていた悲しみを海へと流し去った台風とも言われています。この地が度々水害にの被害を受けてきたことがわかります。背後には新しい砂防堰堤が造られています。その姿は、「わしが守る」と両手を広げているようです。

    

 

2.八木地区

八木地区では、最初に県営緑ヶ丘住宅の慰霊碑を見に行くことにしていましたが、直前にある広島市豪雨災害伝承館に立ち寄ったところ閉館日だったため意気消沈して、その先へ進むことを失念したまま次へと向かってしまいました。仕方がない、明日また来ることにしょう。

一方で、ここから先は水害碑へのアプローチ精度が劇的に向上しました。これまでは、私が自分のスマホをみながら「だいたいこの辺」と行先を指定していましたが、くぼっちが自らのスマホをカーナビと接続し、スマホで開いた水害碑の位置をカーナビの目的地として設定するのです。「今後は、次に行く水害碑番号だけ指定してくれ」とのことで、カーナビ画面を見ると、確かに「鎮魂碑」が目的地になってます。技術革新とは素晴らしいですね。

そうして、梅林駅近くの大國神社社殿横に建てられた「鎮魂の碑」には、難なく辿り着くことができました。そのすぐ近くの梅林小学校の正門内には「広島土砂災害忘れまい8.20」碑。狭い範囲に碑が集中しているのは、この辺りの被害が激甚だったことを思い知らされます。

  

同じ八木地区ですが、少し離れた太田川河畔に「八木地区復興記念モニュメント 息を彫る20191」が設置されています。八木地区出身の彫刻家岡本敦生さんの作品です。復興後の目指すべき将来像とその実現に向けた取り組みをまとめた「八木学区復興まちづくりプラン」策定を記念したもので、新たに根付く命の象徴として作られました。

 

 

3.安佐北区地域

北に進み、太田川を渡り可部地区へ。可部は、太田川の流路が大きく変わるところです。冠山、深入山といった中国山地の山々から流れ出し、山間を蛇行しながら東へ向けて進んで来た太田川は、ここ可部地区で直角に折れ曲がり、広島湾に向けて真っすぐ南へ流れ下ります。次に行く2つの水害碑は、この直角の曲がり角で太田川と合流する、根谷川(ねのたにがわ)流域にあります。

余談になりますが、根谷川も山間部を西から東へ流れた後、上根峠という傾斜面を堺に、まっすぐ南へ向かう流れとなります。境目の上根峠は、大地のドラマ、河川争奪の舞台です。上根峠の北側は平坦な土地が広がり、一帯は江の川水系であり日本海へ注ぎます。太古の昔、根谷川の西から流れ込む部分は江の川とつながってましたが、急速に浸食が進む真っすぐ南下する根谷川に足元をえぐり取られ、奪い取るように繋げられた結果、一筋の根谷川となったのでした。

まずJR可部駅の北東方向の住宅地にある可部東第四公園内の「広島豪雨災害記念碑」へ。碑の設置されている可部東六丁目地区では、土石流により3人の方が亡くなられています。

 

可部地区から、根谷川を少し遡った三入小学校横の川沿いに、「ぼうさい碑」が設置されています。この碑には、「忘れられないあの日 未来につなごう」と赤い文字が刻まれていて、「あの日から復興を願う児童たちの文集欄」も設けられており、児童たちの手による文集が展示されています。三入地区では、根谷川の東側の地域で、土石流が複数生じ2人の方がなくなり、道路が寸断されたことにより高台の住宅団地が孤立する事態も生じました。

  

 

4.安芸区、西日本豪雨

安芸区の水害碑は、瀬野と矢野の2箇所。どちらも2018年(平成30年)7月6日に発生した水害を記憶するためのものです。太田川水系ではありませんが、引き続き訪ねます。梅雨前線による線状降水帯によりもたらされた西日本豪雨による災害の状況は、広島市のホームページに「平成30年7月豪雨災害の記録」として掲載されています。

安佐北区の三入から瀬野へは大移動です。くねくねの山道を向け、高速道路を一区間走った後、瀬野川に沿った国道2号線を西に下り、約1時間かけてJR 瀬野駅前へ。瀬野駅に隣接する瀬野福祉センター敷地内に「記念碑」が設置されています。瀬野駅を含む上瀬野地区では4名の方が亡くなられています。

 

 

矢野西六丁目の「忘れない あの日あの刻 絆の輪」の碑は、矢野西小学校敷地内にあります。インターホンで来意を伝えると、「お待ちください」と女性の方が出てこられて「こちらです」と案内いただきました。教師でしょうか。その方は、「私は昨年ここに来たので、水害は体験していないんです」とのことでした。矢野地区では、矢野川に沿った地域で多数の土石流が発生し川が氾濫し、12名の方が亡くなられています。

 

西日本豪雨による被害は広範囲に及び、隣接する坂町、熊野町、東広島市、呉市などでも土石流や河川氾濫が発生し、広島県内で死者109名・行方不明5名・住宅被害1万5千戸という大惨事となりました。近隣に於ても、岡山県では死者61名・行方不明3名・住宅被害1万8千戸、愛媛県で死者27名・住宅被害7千戸と、大きな被害を出しています。特に、岡山県倉敷市真備町では、高梁川の支流小田川で堤防が決壊し1,200ヘクタールが水没。深さは5メートルに及び、市町村としては最多の52名の方が亡くなられました。
 数字は国土交通省資料「平成30年7月豪雨における被害等の概要」から引用

 

5.佐伯区

矢野から広島高速3号線を駆け抜け、広島市の東端の安芸区から西端の佐伯区へ、またまた大移動。

八幡川の中流域、河内公民館敷地内に「忘れまい大災害」碑があります。ここも太田川水系ではありませんが、以前太田川でカヌーをした直前に発生した、1999年6月29日の豪雨災害を記録するもので、どうしても訪ねたかった碑です。大きく力強い碑の横には、一体となるように説明板が設置されていて、河内地区に起こった災害の歴史が記録されています。1755年(宝暦5年)の窓山山津波以降の度重なる土石流、洪水、山抜けなどの大災害。これらの困難を、助け合いの精神で乗り越えてきた、先人たちの英知と努力を後世に伝えます。

1829年(文政12年)5月24日「荒谷大地震 山抜け」という記録が気になりました。どれほどの大地震がどこで発生したのかを調べたてみたのですが、現時点では情報を得ることはできませんでした。

 

 

6.伝承館、県営緑ヶ丘住宅

2日目は電車で移動。前日行けなかった広島市豪雨災害伝承館と県営緑ヶ丘住宅・小原山地区慰霊碑を目指します。天気予報では、最高気温37度の猛暑日になるということで、熱中症にならないよう注意しながら歩くとしましょう。余談ですが、私が訪れる1か月前、天皇皇后両陛下が、この2カ所を訪れています。

JR可部線梅林駅で下車し徒歩5分ちょっとで「広島市豪雨災害伝承館」に到着しました。よかった、今日は開館中です。早速館内に入り展示物を見学しよう。
既に何組かの方々が見学中です。展示エリアには、豪雨の状況などが詳細な数字データで示されています。刻々と深刻さを増す様が肌で感じられ、当時の緊迫感を追体験することができました。豪雨と復興に関する資料もいくつかいただきましたので、このページをまとめる際のデータとしても使わせていただきました。

 

広島市豪雨災害伝承館から歩いて約20分、県営緑ヶ丘住宅・小原山地区慰霊碑に辿り着きました。とても見晴らしのいいところです。県営緑ヶ丘住宅は、住宅としては標高の一番高いところにあり、背後は山です。この山が崩れ、大規模な土石流となり、甚大なる被害をもたらしました。土石流は斜面を駆け下り、麓の八木用水までの広範囲を埋め尽くしました。発生したのが豪雨降り続く深夜ですので、みなさんどれほど恐ろしい思いをされたことか。

  

慰霊碑より山側は、はむき出しの地面が広がり、に巨大な砂防堰堤が幾つも築かれています。土石流の規模の大きさが見て取れます。一番高いところまで行ってみよう。

 

 

下山したあと、八木用水沿いのお好み焼き屋さんで食事。ちょうど県営緑ヶ丘住宅の真下で、八木用水をはさんだ向かいにあります。おかみさんに、伝承館と慰霊碑を見学してきた事をお伝えしたうえで、水害時の状況をお聞きしたところ、
「用水を越えて、うちの駐車場まで来たんだけど、店の入口で止まり中は被害なかったんですよ。それでも片付けは大変でした」と言って、店内に貼ってある当時の写真を説明してくださりました。

 

 

ちょうど今日は防災の日。日本は自然災害の大変多いところ。今年もあちこちで豪雨災害が発生し、多くの方が苦しめられています。災害など無いのが一番良いのですが、どこでどのような災害が発生したのか知っておくことは、災害への備えの第一歩かもしれません。決して過信をせず、そして慎重になりすぎず、準備をしておきたいと思います。

 


太田川

ホーム