TopIto, Yoko 伊藤 洋子

Yoko's solo exhibition

伊藤 洋子 個展

Madame Rebut

廃物夫人

article

We had the following sentences from Monsieur Miyata, Tetsuya.
宮田 徹也 氏 より 以下の文章を いただきました。まま原文、転載させていただきます。

伊藤 洋子個展 [廃物夫人]
duo Performance 「魍魎(すだま)のいる 3月」 2005/2/17 報告

February : madame rebut / 02月 : 廃物夫人

 伊藤 洋子の個展[廃物夫人]が、2005年2月14日から19日まで、ギャラリー代々木において開催された。伊藤 の活動は多岐に亘り、グループ展、詩の朗読、パフォーマンス、高橋 秀樹とのコラボレーション、ファミリーとしてのイヴェント (Ma_ho_Ma_ho_Family)などがあるのだが、特に伊藤 の過去の個展を数えると、1998年3月が最初で、二度目は2002年2月にギャラリー代々木、3度目は2003年2月に同じくギャラリー代々木であり、今回が4度目を数えることになる。

 ギャラリー代々木はJR代々木駅の西口を降りて、山手線のガードをくぐり、何線か判らないが、踏み切りを渡って右側に位置する小さな画廊だ。道路に面してガラス張りになっているので、画廊の内部は外からも見渡せる。

 今回、伊藤 が出品した作品群は、その展示順にMa_ho_Ma_ho_FamilyのHP(https://www2u.biglobe.ne.jp/~hinden/index.htm)で見ることができる。そのデータを、ここに記す。「題目」(サイズ/制作年度/素材)の順である。なお、HP上では、それぞれの作品についてのコメントが掲載されているので、御参照願いたい。

 

・「御身」(F5/2004年10月14日/油性マーカー, 色鉛筆, 筆ペン,Sennulier ブロック SE-2506 極細目)

・「濃霧」(F6/2004年3月7日/油性マーカー, 筆ペン, Sennulierブロック SE-2506 極細目)

・「廃物夫人」(F6/2003年11月8日/油性マーカー, Sennulierブロック SE-2506 極細目)

・「焼けた月」(F10/2003年11月15日/油性マーカー, 筆ペン, スケッチブック)

・「母は不在」(F6/2004年1月25日/油性マーカー, Sennulierブロック SE-2506 極細目)

・「追跡と林檎ジュース」(F6/2003年11月3日/油性マーカー, 色鉛筆, Sennulier ブロック SE-2506 極細目)

・「貞操帯と雨と」(F6/2003年11月16日/筆ペン, Sennulierブロック SE-2506 極細目)

・「殺人者」(F10/2005年1月21日/筆ペン, クレスター水彩紙)

・「廃物夫人 パック」(葉書8葉組「陽」「雪」「溺」「闇」「虹」「月」「燃」「血」/2004年9-10月/総て油性マーカー, 色鉛筆)

・「3ピース」(3枚組「私の8つの太陽」F6/2003年11月17日/油性マーカー, 筆ペン, Sennulier ブロック SE-2506 極細目、「いつかみた夢 #1」F9/2003年9月20日/油性マーカー, 色鉛筆, スケッチブック、「稲城(いなぎ)燃ゆ」F9/2003年10月5日/油性マーカー, スケッチブック)

・「水無月」(F50/2004年6月26日/グワッシュ、キャンバス)

・「褥(シトネ)。蛇(クチナハ)ノ居(イ)ル」(F10/2003年9月29日/油性マーカー, 筆ペン, スケッチブック)

・「水の柩」(F10/2005年1月16日/油性マーカー, 色鉛筆, スケッチブック)

・「卯月」(F6/2003年8月12日/油性マーカー, 筆ペン, Sennulier ブロック SE-2506 極細目)

・「密約」(F10/2004年5月16日/筆ペン, スケッチブック)

・「うかのみたま」(F10/2003年2月15日/油性マーカー, 筆ペン, スケッチブック)

・「いまひとたびの」(F10/2004年4月6日/油性マーカー, 筆ペン, スケッチブック)

 

 昨年、幾つかのグループ展で発表していて、既に見たことのあるものも含まれている。「水無月」はアクリルで描いているが、伊藤 はそのほとんどの作品を油性マーカー、色鉛筆、筆ペンで描いている。油性マーカーは時間が経つにつれて色が変わってしまうので、使わないほうがいいと絵描き仲間から指摘されるそうだ。これにこだわり続けて、「今後、変化しない」と宣言しているわけではないが、一向に伊藤 はやめようとしないらしい。私もそれでいいのではないかと思う。油性マーカー、色鉛筆、筆ペンという、直ぐに手に取れるメディアを使って、直ぐにイメージを形成する。「絵を描く」という仕事は、もったいぶって始める「特別な」作業ではない。そのような「特別さ」は、すぐさま「天才」に結びつく。そして「芸術至上主義」に安易に発展してしまう。その一例として、油絵が永遠の色を残し、作品が永遠に残るという神話から、日本では昭和10年代から戦争画が多く制作された事実を挙げることができるだろう。「芸術に永遠はない」。会津八一はそう語った。何故なら最強の素材であり、最も古い歴史を持つ石碑でさえ、何千年もの雨風の力によって朽ち果てるからである。私は会津を支持する。色あせてしまってもいいではないか。会津とは違う観点からも、芸術の永遠性の虚しさを語ることができる。芸術を形成した証を、何故必要とするのだろうか。ここでパフォーマンスの歴史を紐解いても意味がないので止める。

 伊藤 の絵の素晴しさは、常に外界と自己との区別がついている点にある。そして、その差を縮めようとか、自らの世界に引き込もうとか、外の世界に委ねようとするのではなく、幾ら逃れようとしても、外界と自己が繋がっていることを証明する一元論を表している。そこに発生するジレンマを、苦悩とか喜びとかいった感情論ではなく、かといって宗教的な混在でもなく、率直に伊藤 は自己の見たまま、感じたままを絵として示している。この作業は簡単そうで、過酷な重みを持つ。それを伊藤 は真直ぐに前を向いて背負っている。そこに、他に類を見ない美しさを見出すことができる。

 伊藤 に絵のイメージと詩のイメージの相違点を尋ねると、それぞれは別のものであり、独立しているから、この絵に対してこの詩が存在する訳ではないという答を戴いた。伊藤 にとっては確かにその通りなのかも知れないが、私が見る限りでは、伊藤 の詩の世界観は、やはり外界と自己の一元論という観点から一致する。更に、詩と絵の間にもジレンマが発生し、それを取り纏められる一元論の力が働いているのではないだろうかと憶測するのである。この力が発生し、処理していくことも、莫大な創作エネルギーとそれを支えていく意志が必要となるのである。

 その様な伊藤 の絵に囲まれて、2月17日にduo Performance「魍魎(すだま)のいる3月」が行なわれた。伊藤 の朗読と、入間川 正美のCelloによる共演だ。伊藤 は絵を発表する前から、詩の制作/朗読を繰り返していた。入間川 正美(http://www.realdoor.com/iru/)のプロフィールを以下に記す。「1989年より、チェロの即興演奏をはじめる。以降、現代美術・実験演劇との共演が多数ある。1998年より、ソロシリーズ「セロの即興もしくは非越境的独奏」を高田馬場プロト・シアターにて開始する。現在まで述べ17回を数え、同名のCDを、2002年SPC Recordsより、発表する(SPC-MI-0001)。また、1999年、小柴光生(sax)、藤掛正隆(ds)、山本 康一(g)とM's NEXUSを結成する。2000年リトルモアより「Mのネクサス」(LMR-101-102)を発表する。」とてもフリージャズミュージシャンという括りでは語ることができない。伊藤 と入間川はもう何十年来の知り合いということである。私が伊藤 の詩の朗読を聞くのは、今回が二度目だ。一度目は、音の入らない伊藤 の独奏だった。入間川を聞き始めたのは2003年の夏頃だろうか。そのゲシュタルトが存在しない硬度な演奏は、少しずつの変化ではあったが、2004年11月6日のソロ公演を機に、新しい境地を目指しているのではないかという気がするのである。それまではキュビスム的な、全体像を明らかにする演奏であったことに対して、これからは複雑な立体のような、一面だけではなくオーディエンスが廻り込まなければ見つからなくなっていくのではないだろうかという感触がある。だからこの度のduo Performanceは私にとって、伊藤 の朗読に対する更なる理解、伊藤 の朗読に他者が入る興味、入間川の今後の方向性、入間川と伊藤 の絡み、その他諸々といった、三重にも四重にもそれ以上の楽しみと期待があった。

 duo Performanceは、くつろいだ雰囲気の元、幾分時間を押して始まった。伊藤 はしゃがみ、立ち、寝転び、うずくまり、壁に凭れ掛り、自作を見ながら、壁を歩きながら、詩を8つほど、立て続けに、時には間を空けながら、朗読した。その題目は、「地図」「蝸牛のララバイ」「午後6時」「水無月」「文月」「霜月」「如月夜話」「紙風船」(順不同)、そして新作、「魍魎(すだま)のいる3月」である。当日、本番直前に、読む順番が決められたという。尚、ここに挙げた詩の一部は Ma_ho_Ma_ho_Family のHPで読むことが出来る。入間川は弓弾き、指弾き、弓弾きと、伊藤 の朗読のテンポに合わせることなく、全体を3部に分けて演奏したように思う。入間川の内面では、朗読と自己の演奏は、何かによって繋がっていたのだろう。私にはそこまでを聞き取る力が無かった。二人は、画廊の壁が薄いため、隣の店からテレビの音が聞こえようと、線路が近いため、電車がガタガタ通ろうと、道路が近いため、車が喧しく走ろうと、一向にお構いなしに、自らの行為に集中していた。40分程で、duo Performanceは終了した。

 何も特別なことは起こらなかった。伊藤 は淡々と、普通に朗読した。時に語調が強まった位である。早口で朗読したり、単語を別の区切りで読んだり、飛び跳ねたり躍り出したりすることは無かった。入間川も、普段通りのcelloの演奏を行なった。伊藤 に対して何か特別な処置をしたり、いつもと違うことを行なったりすることは無かった。その演奏は、普段よりは幾分静謐だった。それが伊藤 だったからか、これからの展開なのかは、私にはまだ見極めることはできない。唯、最近の入間川の演奏が、録音後にも前後左右の入れ替えが利く、謂わば「構成」的な面が強まっているのに対して、この日は、「時間」感覚という流れをはっきりと、聞くものは自覚できる演奏になったのではないだろうかと思う。時間が折り重なって積み上げられているのではなく、彼方に出現して、遠くに見えていて、近づいてきて、通り過ぎて、消えていく感触の演奏である。この淡々と進む時間感覚が、とても心地好かった。

 この「何も特別なことが起こらなかった」ことが、最も重要なことなのだ。何か新しいこと、奇抜なことが起こればいいのでは決して無い。このduo Performanceを経験することによって、私の興味は、伊藤 /入間川だけではなく、これは伊藤 の絵に教えられたものである、自己と外界の関係性、即ち現在の日本の芸術の世界への関心まで広がった。原田 広美は彼女のHPに掲載されている論文、「林祐次のポエム・リーディング『人間以外。』」の中で、「ポエム・リーディングの隆盛は、他のジャンルと連動した変革的な動きの指標となる」と指摘している(http://www.h5.dion.ne.jp/~hiromi29/)。このような根源的な意味での朗読を、私は今回のduo Performanceで感じた。伊藤 と入間川の連動は、同時進行しないからこそ、そこに違和感が全く発生しないことも気がつかない程の一体感を感じることができるのである。伊藤 は朗読したいように朗読する。入間川も同様に、Celloを弾く為にCelloを弾く。そこに何も特別なことが発生する必要はないのだ。同時に、何処何処大学系の作品である/演奏であるといった棲み分けもここには存在しない。そういった分類こそが芸術を衰退させる原因の最たる一つに数え上げられるべきであることに気がつく人は少ない。

 現代日本の芸術は既にその行き場を見失っていると言っていい。複雑で分かり難い作品が蔓延し、インターナショナルを気取りながら自己の存在理由を明らかにできなくなり、目標を持てずに行き当たりばったりの彷徨を繰り返す。何故芸術を創り、何故生きているのかを提示できなければ、それは芸術と呼べなくなる。その様な指針となるべき姿を、私はこのduo Performanceから見出せるという確信を持った。アヴァンギャルドと変革は常に結びつく訳ではない。変革にアヴァンギャルドが常に必要なのではない。変革は現状に対しての打開策であり、策を超えた一つの必然性を伴う。だから変革と革命は異なる。私達は常に変革することを望まなければならない。その変革の手立てを、伊藤 の活動、入間川の演奏が、私達に教えてくれる。そしてこれからも、伊藤 と入間川はこのような啓蒙といった形ではないスタイルで、私達に様々な問を投げかけてくるのだろう。それが共演であっても、個々であっても。その問に対して答える術を、私達は見つからなくとも「探す」努力を、日々、行なわなければならないだろう。

日本近代美術思想史研究 宮田 徹也

Top events profile Yoko hinden Hideki
Ma_ho_Ma_ho_Family
まほまほファミリー
今後の活動
今までの活動
われわれは
何者か
伊藤 洋子
詩人
ひんでん 高橋 秀樹
作曲家 : 幸せを売る男

navi » サイト内ナビ