TopMa_ho_Ma_ho_Family まほまほファミリー

[まほまほファミリー] performance 論評の数々


by Monsieur Miyata, Tetsuya.
当 page に 記載されている論評はすべて、日本近代美術思想史研究・宮田 徹也 氏 によるものです。

(太字・色字による強調は、オリジナルではなく、web編集者によるものです。)


以下の書籍のために書かれた文章を、本人の許諾の元、[まほまほファミリー] による舞台・企画に関する記事を抜きました。

[ダンスワーク] 56 2005 年 春号 [2004年ダンスの総括]
ダンスワーク舎

目次

[まほまほファミリー] とは、

まほまほファミリー個展 [わりあて] での [ミュージサーカス]

高橋 秀樹 抜き まほまほファミリー [Performance] (伊藤 洋子の実質ソロ)

高橋 秀樹 [performance 仏法僧 Hideki による ポエトリー的 辻説法]

(オマケ) [PERSPECTIVE EMOTION 7]

Go » 氏の他の論評を読む。


引用 ココカラ。


2004年のダンス批評

(前略)

五、二〇〇四年度心=体活動総括

総ての敬称を省略した。

●二月一日(日)

「ミュージサーカス」

まほまほファミリー個展「わりあて」(1月30日~2月3日)におけるスペシャルイヴェント

出演 :

梶塚千春
菅間 圭子
高橋 弘子
賃貸人格
ドイウロコ(キリン)
平野 晶広
万城自純
御手洗花女
村田 いづ実
森下 泰輔
若尾 伊佐子

場所 :

J-trip gallery (渋谷)

まほまほファミリーとは、

詩人で画家である伊藤 洋子、音楽家であり総ての芸術に精通する高橋 秀樹、二人の子供のまほちゃん、ともみちちゃんという、今のところ四人による芸術集団である。
全員で活動することもあるし、個人の時もある。
まほちゃんは、詩の朗読に参加したこともある。
ともみちちゃんがバブバブそこにいることにも、インスタレーション的意味合いが生まれる。
まほまほファミリーのHPを参照して戴きたい ( https://www2u.biglobe.ne.jp/~hinden/ )。
このようなまほまほファミリーは、何処の大学を出た何処に所属する何系の団体であるといった、つまらない定義を必要としない、自由に芸術を発表し続ける、貴重な団体である。
ここにある「自由さ」とは、単に勝手なことをしているのではなく、まほまほファミリーが持つ価値観を、自身で大切に育み、見る側と対話できるところまで、昇華する点にある。

[ミュージサーカス]

平野による万城目、森下に対するインタビューのような、雑談のような対話から、いつの間にか「ミュージサーカス」は始まった。
「ミュージサーカス」はジョン・ケージの造語であるが、まほまほファミリーのこれは別物であると高橋 は言う。
伊藤 の詩を手に持ちオーディエンスの耳元で囁く様に朗読する平野達グループと、
その一切を無視してまるでシャーマンの如く彷裡う若尾達のグループ、
この浮遊体のような存在と対照的に激しく動き回る村田達のグループ、
キリン達のフリー・インプロヴィゼーションの音が、
混然一体化する。
しかし、それぞれが独立した動きを持っているにも関わらず、ある一定の秩序が形成されていて、混乱を巻き起こさない。
それは高橋 から個々に対して、詩篇の様な指示が出されていて、この恣意的なシナリオが全体を統合しているのであった。
高橋 は恐らく、見せる側一人一人の個性を充分に把握しているのであろう。
この仕掛けを理解し、行為として心=体を成立させた、見せる側の力量も大きい。
伊藤 の詩、高橋 の振り付け無き演出は、演劇とも、ダンスとも、現代美術的なパフォーマンスとも呼べない個性が存在する。
何故パフォーマンスとも呼べないかというと、従来の美術的なパフォーマンスに無い、村田達の激しい動きが内在されているからだ。
「パフォーマンス」ではない言葉を、探さなければならない。
ここでは仮に、リゾーム心=体総合体としておこう。
ここで言うリゾームとは、哲学的用語ではなく、ドゥルーズ=ガタリが言うように、単なる根である。
この様に「ミュージサーカス」は、まほまほファミリーの持つ、従来の「芸術」とは一線を引く独自の芸術観を、明確に示した稀に見るリゾーム心=体総合体であった。

一つ付け加えておくと、会場のj-trip garellyとは、

渋谷と代官山の間に位置する、二〇〇一年一月にオープンした、新しいタイの画期的な画廊である。
現在の位置に移転したのは二〇〇三年六月である。
他の画廊では見ることができない、個性的な作家を取り扱っている。
上手ければいいというものではなく、良いものがいいということを、この画廊のオーナー、佐藤 氏は提示している。
「美術」という定義に対しても、自由な解釈を持っている。
プロジェクター、巨大スクリーン、ミラーボールが設置されていることが、この思想を表している。
平面作品だけではなく、数多くのイヴェントが、この機材を使って行なわれている。
テレビ製作とのリンク、作品の小物販売と、従来の画廊の枠を超えて、新しい画廊像、美術との係わりを模索している素晴しい場所である。
j−trip garellyのHPは以下の通りである。
 ( http://open.sesames.jp/j-trip/html/_TOP )。

引用 ココマデ。


高橋 秀樹 抜き まほまほファミリー [Performance] (伊藤 洋子の実質ソロ)


引用 ココカラ。


●五月二二日(土)

まほまほファミリー「Performance」

Exhibition [Digital Art Prints Extra] 展 (5月21日~6月1日) の スペシャルイヴェント

出演 :

伊藤 洋子
まほ
ともみち

場所 :

渋谷・j-trip garelly

[Digital Art Prints Extra] 展 主催者の森下 泰輔から、まほまほファミリーに出演の依頼があった。
この時、高橋 秀樹はイタリア公演中で参加できなかったので、実質、伊藤 のソロとも言える。
しかし、 まほ、ともみちの心=体的存在感は強く、私は出演者として認識した

伊藤 は、二〇〇一年九月一二日に法政大学学生会館で行ったイヴェント、「男と女」のビデオを、j-trip garellyの巨大スクリーンに音声なしで投影して、詩の朗読を三〇分行った。
残酷で愛情が満ち溢れる自作の詩を、伊藤 は普通に朗読する。
ヨーロッパ・ダダ的にわざと単語を区切って読んだり、奇声をあげたり、躍り出すということは一切無い。
淡々と朗読しながらも、そこに内在する心=体性は、強烈な眼に見えない暴力性となって、見る側に襲いかかってくる。
伊藤 は、歩いたり、座ったり、寝転んだり、まほ、ともみちを制止したりしながら、朗読を進めるという、柔らかい心=体性を見せているからこそ、そこに顕れるギャップが、見る側の想像力に、思い切り火を焚きつける。
バックの映像に流れるまほは、本当に小さい。
それがまだ小さいけれども、大きくなってきている。
だっこではなく、歩いている。
この時間差が表れている空間性も、とても面白かった。
「暴力的に襲い掛かる」と私は書いたが、そこに危険性や恐怖があるのではなく、暴力と優しさの紙一重の感情を持つ、伊藤 ではなく、伊藤 を含めた、「人間」の生き様というものとは何かという問いを、強制なく突きつけられた快楽が、ここにはあった。


引用 ココマデ。


高橋 秀樹「performance 仏法僧 Hidekiによるポエトリー的 辻説法」


引用 ココカラ。


●八月九日(月)

高橋 秀樹「performance 仏法僧 Hidekiによるポエトリー的 辻説法」

j-Trip Art Gallery クラブイベント (8月5日~9日) におけるスペシャルイヴェント

展示 :

村田修一
伊藤 洋子
TOUCH & GO !

会場 :

DISCOTECA Rosa Fiesta (六本木のディスコ)

この日は、まほまほファミリー、高橋 秀樹のソロであった。
HPにその詳細が記されている
( https://www2u.biglobe.ne.jp/~hinden/map/j_trip/20040809_rosa_fiesta.htm )。
ここから、引用する。

「他にもいろいろやっていたと思うが、はっきり覚えているのは以下の二点。
 一.伊藤 洋子の詩 [泰山木の花] を朗読。
   床に這いつくばり、転げ回り、しながら。
   朗読と同時にnoise演奏、violinの弓、使用。
   楽器ではなく、そこらへんにあった何かの空き箱を擦って演奏。
 二.[修證義 (シュショウギ) ] 道元開祖 [曹洞宗] の経典。
  (略)Hideki は [語りモノ] として独自に考案」。

伊藤 の「泰山木の花」は名作中の名作 で、視覚的に読むことでもその本質が掴めるのだが、声を出して朗読することによって、更に作品の中に入り込むことができる。
それを高橋 は、今回のパフォーマンスで実践した。
伊藤 自身の朗読を耳にしたことはあったが、他の人におけるそれは初めてだった。
頭を剃った=坊主の高橋 は、クラブ内の半径型ステージにヴァイオリンの弓のみを手に携えて登場、伊藤 の朗読とは全く異なり、そこら辺の物をその弓で擦りながら、詩を「絶叫」する。
その声は、今でも耳に残っている。
弓の使用に制限は無く、高橋 はあらゆる体位を採って、擦り捲る。
そして、体中を痙攣させる。
叫び/ノイズ/動きが一体となり、ここに現れた心=体は、如何なる「ダンス」と呼ばれているものも敵わないのでないかというくらい、体と心が一体化していた。
修證義を朗読する際にも、それは同様であった。
御経と言う辛気臭いテクストを、高橋 はその発音によって、見事に一つの作品として蘇らせた。
一見、高橋 はふざけている様にも見えるのだが、高橋 が持つコンセプトは、芸術の本体を見据えている。
高橋 は、この御経の意味にも通じているのだ。
高橋 は、「狂気」と「狂喜」の違いを知っている。
それは、「芸術崇拝」と「芸術自体」の違いを明確に示すことと、比例する。
日本文化論を説く者は、このような高橋 の心=体から芸術の本体を抽出していただきたい限りである。


引用 ココマデ。


(オマケ) [PERSPECTIVE EMOTION 07]

注。

[まほまほファミリー] は 出演していません (#02 になら 伊藤 洋子 が 単独で出たけど)。
文章中に [まほまほファミリー] が 引き合いに出されているので、この項も 参考資料として このページに抜きました。


引用 ココカラ。


●十二月二九日 (水)~十二月三〇日 (木)

『第七回透視的情動 PERSPECTIVE EMOTION 7』

出演者リスト

* ----- ()内数字は出演日。なしは両日。 SOUND :千野 秀一
山川 冬樹 (30)
竹田 賢一
Bruno FERNANDES
長谷川 洋 (29)
影男 (水晶の舟)
望月 治孝
鈴木 慶
山本 雅史 (30)
久田 祐三
石川 雷太
向井 千惠 VISUAL :西山 修平 (29) DANCE :平野 昌広
武藤 容子
浅見 裕子
金亀 伊織 (29)
別所 るみ子
七感弥 広彰
あらた 新生 (29)
渡邉 聡
岩名 雅記 (予定)
万城目 純 PERFORMANCE : 星野 修三
伊牟田 耕児
黒田 オサム
西島 一洋
磯上 知子
花上 直人
anti-cool
魔ゼルな規犬 (30)
サエグサ ユキオART :宮島 永太良

会場 :

西荻窪・西荻 WENZ スタジオ

PERSPECTIVE EMOTION 実行委員会 (向井 千惠・石川 雷太・サエグサ ユキオ・万城目 純) による企画であり、今年が七回目を数えるという。
主宰の意図は、ここでしか集められない多/他ジャンルの有名・無名の面々が某基金や某企業メセナのバックアップなしに、資本主義には一向に寄与しない形で、この冒険的、実験的な試みを継続しているところにある。
二日間に亘り、総勢三十三人の見せる側が参加した。
両日共に二部構成になっていって、第一部は 「シャッフル」と題され、各出演時間枠の直前にネームカードを引くことにより、その枠内の見せる側と、二人から四人の人数を決める。
第二部は、第一部参加者による、任意の集団即興である。

私が見たのは、三〇日の第二部のみであった。
全員が一度に入場して、そのまま最後まで公演するのではなく、少しずつの人数で入場し、途中で退場し、再び戻る者もそのまま出てこない者もいた。
全体の感想を記すと、どうしても見せる側それぞれがそれぞれに対して、遠慮なり敬意なりを払ってしまい、私としては、それぞれの対話/対立を期待していたのではあったのだが、その点に関しては、もう一つの面白みが欠けた。
ミュージシャン達も同様で、それぞれの心=体活動としての演奏にまでは、到らなかったのではないだろうか。
まほまほファミリーの「ミュージサーカス」にあるような、混沌の中に生まれる秩序 が見受けられなかった。
主催者としては、個々に制約を設けるのではなく、自由に動いて欲しかったのであろう。
それは、スコアがあるかないかといった問題も含まれる。
しかし、スコアがあれば総て上手くいくわけでも決してない。
この間題は、ジョン・ケージとマース・カニングハムとの対比を例としても、今後考察していかなければならないだろう。
私にとって、今回の集団即興は注意を引かなかっただけで、他の人にとっては面白かったのかも知れないし、今後もこの形式のまま続けたとしたら、それはそれでその時に新たな出会いとか発見とかが生まれる可能性も残しているのだと思う。
ここに完全即興の難しさがあるのだろうが、だからこそ優劣をつけるのではなく、見せる側の真剣さに対して、見る側も丁寧に、真剣に、常に足を運んで確かめなければならないと思う。

私が特に個として注目したのは、別所と万城目だった。
別所は、序盤過ぎに登場した。
登場するなり、早速プロジェクターの光を指によって操るという行為は、別所がカオスモスマシンに触れたり、自らが写真家として行動していたりするという、「光」 に対しての接触の多さ、それに伴う敏感さがそうさせるのであろう。
別所は大きなステップを踏み、会場内を所狭しと駆け巡る。
その傍らで、万城目は、日本の何処かの地方の土着的な「踊り」のような、ケサ踊りのように、手を体の前でおもいっきり一度だけ振りかざした。
そして、別所を抱えて二人は退場してしまった。
その後、二人が登場することは無かった。

 この原稿は、そのほとんどは見せる側の方々から御教示を戴き、そこで発生したやりとり、「対話」の中から生まれた。だから総ては、私一人の力では書き切れなかっただろう。この場を借りて、御礼申し上げます。ありがとうございました。


引用 ココマデ。

(太字・色字による強調は、オリジナルではなく、web編集者によるものです。)

(オリジナルの縦書きを横書きにしたことに伴い、漢数字を算用数字に変更するなど いたしました。)

(web に 向くように、句点ごとに改行を入れるなど いたしました。改段落に当たる箇所に行空けを入れるなど いたしました。)


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