理想の世界

 そこにあるのは正しい光。
 そこにないのは邪悪な影。

 理想の世界。

 この場にこそ、その名はふさわしい。
 この場でなければ、その名はふさわしくない。

 ふさわしくない場が名乗る理想は許すまじ。

 かくして理想は1つ。
 かくして理想はこの場。

 かくして人は争う……。


 約46億年前に誕生したこの地球は、今や人間がそのほぼ全てを支配している。いや、人間には「支配している」という感覚はないだろう。ただひたすらに自分たちの生活環境を整えてきたに過ぎない。「全てを知りたい」という飽くなき欲望は、最初は自分たちの周囲、次に隣、もっと遠く、と広がり続け、ついには宇宙にまで飛び出している。宇宙にしても太陽系から銀河系へと広がりを見せ、ついには別銀河へとその目が向けられている。もはや地球上に神秘の世界はなく、多くの人々をひきつけるほどの理想の世界は外に求めるしかなくなったと言っても過言ではあるまい。
 争いは絶えず、貧富の差は激しくなり、裕福な者が惰眠をむさぼっている間に別な場所では餓死者が続出している。いわゆる先進国では技術が先行するあまり人々はそれについて行けず、一部の人は次第に人間性が失われてゆくことを嘆き「未来は暗い」と絶望した。いわゆる発展途上国では一向に良くならない生活に絶望し、やはり「未来は暗い」と人々は口にした。
 現状に満足しているわけではないのに現状は良くならない。進みたいのに進めない。そして一回進んでしまったがためにもはや戻ることもかなわず、人々は目指すべき方向性を認識できずにいる。

 人々から「理想の世界」と呼ばれる場所。そこには名前はない。いや、「理想の世界」こそ名前。それ以外の呼び名はあり得ない。
 豊かな大地。そこからもたらされる食物は人々に平等に分配される。
 温厚な人々。平等であることを喜び、争いを好まない。仕事熱心で、旅人を暖かく受け入れる。
 気候は温暖。雨は適度に降り、天災もなければ侵略もない。
 人々はそこを思い、多くの者がそこを探し、勇気ある者がそこを目指し、そして誰一人たどり着かなかったという。
 半ば伝説と化しながら、それでも信じ続けられる「理想の世界」
 それは袋小路に入り込んだ人々にとって、唯一閉塞を打破するものであったのかもしれない。

 少年がたどり着いたのは偶然であったのか。
 幼少の頃よりただひたすら追い求めた理想の世界。どうやってここまでたどり着いたのかは覚えていない。あるいはここは夢の中なのか。
 眼前に広がるのどかな世界。人々に気負いはない。不安の影も見えない。
 少年の姿を見つけた農夫が、遠くから少年の方へと歩み寄る。
「旅人かな?」
 素朴な質問。警戒感のかけらもない問いかけ。純粋な確認。
「疲れているだろう。私の家でゆっくり休みなさい」
 うなずく少年に目を細めながら、農夫は少年を誘った。仕事中であることを気にする様子を感じ取ると「畑仕事は明日でも出来る」と言葉をかける。まさに旅人にとって理想的な対応であった。しかも無理がない。暖かに包み込むような人柄。ああ、ここが「理想の世界」なのだ、追い求めていた場所なのだ、と少年は思った。料理や寝場所などいたれりつくせりの農夫の歓待に、少年はうれしくて仕方がなかった。翌日も畑仕事を休んでここを案内しよう、と言う申し出はさすがに悪くて丁重に断ったが。

 翌日。少年は周囲をゆっくりと散歩してみた。のどかに続く田園風景はとぎれる様子がなく、どこまで続いているのかはうかがいしれない。少年の姿を認めた者は例外なく挨拶をし、仕事の手を休めて世話を焼きたがる。辟易しないでもなかったが、悪意があるわけではないし少年が遠慮するとそれ以上は言わないので、むしろ心地よかった。

 3日目。前日はパン屋の主人の厚意に甘えた少年は、中心部を見てみようと思った。さほど大きなビルがあるわけではない。せいぜい3階建てくらいの小さな建物。そこが行政府であるらしい。玄関先で少年の姿を見つけた受付担当員は腕を引いて見学していくように言い、行政の仕事をしているはずの人々も総出で行政の仕組みについて説明したりした。それは少年の知る行政とほとんど差がないものの、税金がないことと物品は平等に分配されるという点が異なっていた。それに対して人々は不満を漏らすこともなく、喜んで受け入れているという。確かに人々の表情からは不満など感じられなかった。その日、泊まっていくように強く請われて、少年は行政府で一夜を明かした。

 4日目。行政府の中を1人で歩いていた少年は、不思議な扉を発見した。それは行政府の奥深く、普通ならば人が立ち入らないであろう倉庫の奥にあった。鍵がかかっていなかったので、少年はそこへ入ってみる。その奥にはもう1枚の扉。わずかながら声が漏れている。
「某国が豊かになりつつある。人々はそれを歓迎しているようだ」
「それはゆゆしき事態。至急対策を講じなければ」
「そうそうそれよ。いつもの通りにな」
 少年は何がゆゆしき事態なのかよく分からなかった。何か不吉な予感が脳裏をよぎったが、どうやら中の人々が出てきそうだったのでその場を離れた。

 5日目。前日に引き続き行政府に宿泊した少年は、再び周囲を散策してみることにした。前日のことは少年に疑惑を抱かせていた。
 ここは本当に「理想の世界」なのか。
 そう思って見ると、様々なものが不自然に見えた。顔に笑みを張り付かせている農夫。自然を装って話しかけてくる人々。緩やかすぎる時の流れ。昨日まではあれほど自然に見えたものが、今日はどう考えても嘘に思える。そんな考えが表情に現れていたのだろう。人々は少年が病気なのではないかとかまいたがり、少年は病院で一夜を明かすことになった。

 6日目。少年の疑惑はさらに深まる。あるいは人々は、理想の状態を維持するために努力しているのではないだろうか。決して悠々自適に皆が生活しているわけではないのではないか。少年はこの場を立ち去る決心をした。外から見ればまた違って見えるのではないかと思ったからである。ところが、人々は思いの外それを阻止したがった。これまで少年の意志を尊重してきたというのに、立ち去るということを許そうとしない。言葉は穏やかだが、どうあっても外には出さないという決意がそこには見て取れた。
 人々の声を振り払って立ち去った少年は、誰も追ってこなかったことをやや意外に感じると同時にほっとしていた。これであの「理想の世界」がどのような世界であったのかを判断することが出来る。そう思った。

 7日目。少年はいくつかのの人影が近寄ってくるのに気づいた。単なる通行人ではなく、明らかに少年に向かってきている。どれも顔に布を巻き、感情を読みとることは出来ない。
 少年は不意に悟った。「理想の世界」がなぜ理想の世界であるのかを。
 そして悟りながら、「理想の世界」を求めた自分をののしった。
 自分たちで理想の世界を創りあげようと努力するべきではなかっただろうか、と。

 灼熱が少年の体ではじけた。


 理想の世界。

 外に求めれば近いようで遠く、内に求めれば奥深くて届かない。
 もし仮に、この理想の世界が次元の狭間にあるとしたらどうだろう。そして「理想の世界」が理想の世界であるために活動しているとしたら。

 理想の世界。

 それは相対的なもの。ある者にとっては理想の世界であっても、ある者にとってはそれは理想の世界でないかもしれない。車を持っている者にとって自転車は理想ではないだろうが、徒歩の者にとって自転車は理想であろう。
 いかに優れていなくとも、他がさらに優れていなければそこは理想の世界。

 理想の世界。

 理想に到達した時、人はどうするのだろう。苦しまなくても良いという理想の世界を求め、ようやくにして理想をつかみ、その状態を維持するために努力し苦しむ。そしてまた……。手にしたものは本当に理想なのか。手にすると、理想はたちまち理想でなくなる。理想の世界は、実現した時点で理想の世界でなくなる。

 理想の世界。

 理想の世界が他を追い落とし、良い点だけを見せ、そうして維持されているとしたら、それは本当に理想の世界なのだろうか。理想を維持するために争いが起こるのは必然なのであろうか。

 理想はどこにあるのだろう。
 どうすればたどり着けるのだろう。

 たどり着いてどうするのだろう……。


〜 Fin 〜

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