橘義清

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事跡:
 寛弘7(1010)年ごろ、出生
 万寿3(1025)年ごろ、大学寮入学か
 長元5(1032)年ごろ、春宮少進
 長元6(1033)年12月、六位蔵人
 長元7(1034)年10月5日、祭主大中臣輔親が碧珠を献上するに際し
                   主上の御前に勤仕(『左経記』)
            10月20日、蔵人の労により正六位上・修理亮を拝命
                   (『日本紀略』『魚魯愚鈔』文書標目)
 長元8(1035)年5月16日、『賀陽院水閣歌合』に蔵人式部少丞として
                   右の員刺・方人を勤める
 長元9(1036)年4月22日、後一条天皇崩御で御遺骸を上東門院に移す際、
                   父義通らとともに御棺を担ぐ
            5月17日、先帝蔵人7人の中にあり、重成(兼長)・頼家
                   とともに素服を給すべく定められる
            5月19日、遺骸を浄土寺にて火葬の際、御棺の運搬を担当
            5月24日、掃除
            5月25日、御仏供養に勤仕(『左経記』)
 長暦元(1037)年3月1日、女御嫄子立后に際し中宮少進に任ぜられるか
            6月28日、中宮が神饌を賢所に奉った際、勤仕
            8月2日、鹿島使発遣に際し勤仕(『平記』)
 長暦2(1038)年9月13日夜、 『権大納言源師房家歌合』出詠
 長久元(1040)年12月、少納言見任(『春記』12月23日)
 長久2(1041)年4月7日、『権大納言源師房家歌合』出詠
 長久3(1042)年閏9月晦日、高陽院で開催された歌合に参加
            このころ『橘義清歌合』を主催
 寛徳元(1044)年ごろ、肥後守任官
 永承6(1051)年12月、勘解由次官に任ぜられる(『魚魯愚鈔』巻七、「兼国勘文」)
 永承7(1052)年9月19日、『関白家蔵人所歌合』に出詠
 天喜4(1056)年、正月、丹波介を兼任(『魚魯愚鈔』巻七、「兼国勘文」)
 天喜5(1057)年2月2日、春日祭藤原師実の一行が社頭で祓を受けた際、
                  従者として春宮大進義清参入
 康平2(1059)年ごろ、没?

 和歌六人党の一人かとされているが、資料によっては範永を入れ、義清を外しているものがある。六人党に入ることを切望した橘為仲の兄。

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