おもふこと

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『故侍中左金吾家集』勘物(群書類従本・東洋文庫本を除く諸本に記載)。

 正四位 右馬頭頼国二男
 長久四年正月九日 補蔵人 所雑色廿九 
 寛徳元年六月七日 卒 年卅
    頼実集
      土御門右府家之人也
 長久三年十一月土記歌人 長元六蔵人
 棟仲 重義二男      経衡 長元六蔵人
 義清 少納言義通一男   頼家 頼光二男   重成 改名兼長 長元八蔵人
 頼実 長元八補 道成三男 世称六人或三 


補遺(家集にない歌)  
  
『後拾遺和歌集』1067 

    蔵人にて侍りける時、御祭の御使にて難波にまかりてよみ侍りける

1 思ふこと 神は知るらん 住吉の 岸の白波 たよりなりとも

『後拾遺和歌集』1145

    山荘にまかりて日暮れにければ

2 日も暮れぬ 人も帰りぬ 山里は 峰のあらしの 音ばかりして

『続詞花和歌集』

    八条の山荘にて人々ほととぎすの歌よみけるに

3 いなりやま こえてやきつる ほととぎす ゆふかけてしも こえのきこゆる

【通釈】

    蔵人にて侍りける時、御祭の御使にて難波にまかりてよみ侍りける
    
1 わたしが心に祈念することは、住吉の神もご存じであろう。住吉の祭の
 使者という便宜で、こうしてお詣りしたとしても。 

    山荘に行って、日が暮れてしまったので詠んだ歌

2 日もすっかり暮れた。人も帰ってしまった。この山荘のある山里には、
 峰吹く山風の音だけが寂しく聞こえていて。

    八条の山荘にて、人々がほととぎすの歌を詠んだ折に
  
3 稲荷山を越えてきたほととぎすだろうか。木綿をかけても声が聞こえるのは。

【語釈】
●蔵人にて侍りける時……勘物にあるように、長久4(1043)年の五位蔵人任官から頼実の没する翌年6月までの間であろう。
●御祭の御使……「御祭」は住吉大社の社祭。現在の住吉大社の夏祭(住吉祭)は、「夏越大祓(なこしのおおはらい)」とも、ただ単に「おはらい」とも呼ばれ、7月30日の宵宮祭から3日間にわたって行われる。7月31日、御例祭につづき、午後5時より夏越大祓神事(大 阪府指定無形文化財)が行われ、着飾った稚児や夏越し女、一般参列者による茅(ち)の輪くぐりが古式によって盛大に行なわれ、けがればらいをする。このときに住吉踊りも見られる。翌8月1日には堺宿院の頓宮に御渡があり、荒和 (あらにご)大祓が行われる。住吉大社は大阪市住吉区に鎮座。出雲大社や伊勢の大神宮とともに『古事記』や『日本書紀』にも記される、摂津の一の宮、旧官弊大社。祭神は、海中より生まれた神、底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと)の住吉三神(または筒男三神・つつのおさんじん)で、神功皇后摂政11年、神功皇后が難波の湊に往来する船の海上守護神として祀ったのを始まりとする(『帝王編年記』)。海上守護・和歌・農耕・商売繁盛の神として広く崇敬され、全国に2000以上ある住吉神社の総本社。
●難波……摂津の国、淀川の河口付近。葦の葉の生い茂る、低湿地が広がっていた。そのため、荒涼とした風景を詠み込んだ歌が多い。「難波江」「難波潟」「難波津」「難波の浦」「難波人」「難波舟」など、言葉はいろいろだが、用い方は同様である。
●思ふこと……「心に思うこと」であるが、神に対して知っているだろうと言っているので、「心に願っていること」を意味する。『袋草紙』には「人に知らるばかりの歌詠ませさせ給え。五年が命に代えん(人口に膾炙するほどの歌を詠ませてくださいませ。わたしの五年の命と引き替えにいたしましょう)」と住吉の神に祈り、「このはちる やどはききわく ことぞなき しぐれするよも しぐれせぬよも(家集93番歌)」と詠むことができたが、その代わりに病に倒れ、亡くなったという逸話(源頼実の頁参照)がある。
●住吉……住吉は現在の大阪府住吉区の一帯を指す。住吉神社があった。なお、住吉は『万葉集』で「住吉(すみのえ)にいくといふ道に昨日見し恋忘貝言にしありけり」などと「恋忘貝」と共に詠まれたが、平安時代になると「忘れ草」に変化する。また、「浪」「寄る」「松」「待つ」を詠み込むことも多い。 
●たよりなりとも……「たより」はついで、便宜。ついでであったとしても。白波の「寄る」と掛けるか。
●八条の山荘……頼実自身の山荘ではあるまい。頼実に関係が深く、八条に山荘があった人物としては、藤原家経と源資通が考えられる。藤原家経との交流は、『頼実集』単独では確認できないが、「落葉如雨」の題で歌を詠んだ際、家経も同席していたとすると(『家経集』に同題で歌あり)、知己であった可能性が高い。家経の山荘も資通のそれと同様、和歌六人党の面々がしばしば集う場所の一つであった。ただし、下記【参考】では、八条が七条と記されている。
●いなりやま……稲荷山。山城国の歌枕。京都市伏見区。東山連峰の最南端、稲荷山の稲荷大社は上中下の三社があり、多くの人々の信仰を集めた。このため、「行きかふ人」「しるしの杉」「祈る」などの言葉と共に詠まれた。
●ゆふかけてしも……木綿かけてしも。「木綿」は楮の樹皮を剥ぎ、その繊維を蒸して水にさらし、細かく裂いて糸にした物。神事の際、榊に掛けて幣として浄めに用いた。この木綿で作った四手(玉串や注連縄に下げる紙)を木綿四手(ゆふしで)という。また神事・祭礼に奉仕する人々がかける木綿で作った襷を「木綿襷(ゆふだすき)」といい、平安時代には「襷をかける」と言われたため、「掛く」に続く枕詞的な用法が多い。

【参考】   
「左衛門尉頼実といふ蔵人、歌の道すぐれても、又好みにも好みけるに、七条なる所にて人々夕べにほととぎすを聞くといふ題を詠み侍りけるに、酔ひてその家の車宿りに立てたる車に歌案ぜんとて寝過ぐしけるを求めけれど、思ひもよらですでに昂然として人みな書きたる後にて、このわたりは稲荷の明神こそとて念じければ、きと覚えけるを書きて侍りける。  
 いなりやま こえてやきつる ほととぎす ゆふかけてしも こえのきこゆる」