よをかさね

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    恋

95 よをかさね ふけひのうらに あまのたく 思ひありとは 人もしらじな

96 おもひかね しらぬいそべに ことよせて うちいづるなみの かひもあらなん

97 ふかみどり 思ひそめては ひさしきを いかでかみまし すみよしのまつ

98 おとは山 たにのしたみづ おとにのみ ききてわたらぬ そでもぬれけり

99 おもふこと なるとのうらに すまぬみの しほたれごろも かはくよぞなき

100 しるべする 人だに見えぬ おく山の ふみみぬ道に まどふころかな

101 としふれど いはぬ思ひは かひぞなき 人にしらるる けぶりならねば

102 いかにせん 恋ぢにまよふ ほととぎす しのびになきて すごすころかな

103 我がごと 恋せん人の またあらば いかにかすると とふべきものを

【校異】
●ふけひのうら(島)……ふけゐのうら(類)
●我がごと(島)……我如く(類)

【通釈】

    恋
    
95 幾夜も重ねた、吹飯の浦に海人のたく「思ひ」という名の火があるとは、
  あの人は知るまいよ。 

96 恋しさをおさえることができず、見知らぬ磯辺にかこつけて、打ち寄せる波は
  貝があってほしいものだ。あなたに恋をうち明けるわたしもその甲斐があったと
  思えるようになりたいものだ。

97 深緑の色に想いを染めて久しく時が経ったのに、どうすればその深緑色の
  住吉の松を見ることができるのだろうか。あなたに逢うことができるのだろうか。

98 音羽山の谷の下を流れる水は、名ばかりを聞いて実際に渡ることはないのに、
  わたしの秘めた思いは、あなたに届かないで、袖が涙で濡れてしまいましたよ。

99 思うことも成るという、その鳴門の浦に住んでいるのではない我が身は、
  涙で濡れた衣が乾くときがないよ。

100 道標をつけてくれる人さえもいない奥山の、足を踏み入れたこともない道に
   迷うように、わたしも恋に迷いながら、手紙ももらえず思い悩むこのごろです。

101 年を経ても、口に出して言わない思いがくすぶる、その火は甲斐のないことだ。
   あの人に知ってもらえる煙は出ないのだから。

102 どうすればよいのだろうか。恋路に迷うほととぎすが声を忍んで鳴くように、
   わたしもまた、人知れず忍んで泣きながら、過ごすこのごろであるよ。

103 わたしのように、恋している人が他にもいるならば、この想いを
   どうすればよいかと、問うことができるのになあ。
 
【語釈】
●ふけひのうら……吹飯浦。一般には和泉国、大阪府泉南郡深日の海岸と言われるが、平安時代には紀伊国の「吹上(ふきあげ)の浜」と混同された。
●おもひかね……恋しさをおさえることができず、どうしてよいかわからず。
●しらぬいそべに……「いそべ」は磯辺。磯(岩石の多い、海・湖などの波打ち際)のほとり。
●ことよせて……言寄せて。かこつけること。
●うちいづるなみ……打ち出づる波。「打ち」は動詞の前に付けて、語調を整えたり意味を強めたりするのに使う。
●かひもあらなむ……「かひ」は「貝」と「甲斐」を掛ける。「あらなむ」の「なむ」は動詞の未然形について、相手に対して希望し期待する心を表す。〜てほしい、〜てもらいたい、〜てくれ。 
●ふかみどり……濃い緑色。
●思ひそめて……思ひ染めて。恋に陥る。
●すみよしのまつ……住吉の松。住吉は現在の大阪府住吉区の一帯を指す。住吉神社(本来海上安全の神であったが、平安後期には和歌の神として歌人たちの崇敬を受けるようになった)があった。なお、住吉は『万葉集』で「住吉(すみのえ)にいくといふ道に昨日見し恋忘貝言にしありけり」などと「恋忘貝」と共に詠まれたが、平安時代になると「忘れ草」に変化する。また、「浪」「寄る」「松」「待つ」を詠み込むことも多い。 
●おとは山……京都市山科区にある山。東国へ向かう場合はこの山を越えて逢坂山へ出た。和歌では逢坂山と対比させたり、ほととぎすの鳴く山として詠まれたりした。
●たにのしたみづ……谷の下水。「下水」は物の下を流れていく水のこと。内々に心に思うことのたとえにも用いる。下行く水。先蹤詠としては、「このはちる山のしたみづうづもれてながれもやらぬものをこそおもへ (『後拾遺和歌集』605・叡覚法師)」、「くみてしるひともあらなん夏やまのこのしたみづはくさがくれつつ 『後拾遺和歌集』615・藤原長能) 」、「としへつる山したみづのうすごほりけふは山かぜにうちもとけなん( 『後拾遺和歌集』623・藤原能通朝臣)」など、いずれも人知れぬ恋のたとえに用いられる。
●なるとのうら……「成る」と「鳴門」を掛ける。「鳴門の浦」は阿波国の歌枕。徳島県鳴門市と兵庫県淡路島の間の海峡。東宮御所にあった「鳴戸(なると)」と呼ばれた戸口と同名であることから、恋する相手の女の親に阻まれて逢えないことを詠みこんだ歌がある。また、「契りしにあらずなるとの浜千鳥あとだにみせぬ恨みをぞする(『千載集』恋五・俊家)」のように「鳴門」と「成る」、「浦」に「恨」を掛けた例もある。
●しほたれごろも……潮垂れ衣。潮水に濡れて雫が垂れた衣を指すが、恋の苦しみで涙に袖が濡れることをも言う。
●しるべする……「しるべ」は導き、道案内、手引き。
●いはぬおもひ……思いの「ひ」に「火」を掛ける。煙は縁語。
●我がごと……我が如(ごと)。「如」は助動詞「ごとし」の語幹。連体語を受けて「〜のように」。わたしのように。
●またあらば……ほかにもいるならば。
●いかにかすると……(手段・方法を聞いて)どのように〜か。どうすれば〜か。