秋
中逢秋
32
秋風は また夏ながら ふきにけり 月のたつをも なにかまつべき
山家早秋
33 秋たちて かどたのいねも うちなびき おとめづらしき 秋のはつかぜ
早秋月
34 はつ秋の そらさへすずしき 月かげは 人の心も すみまさりけり
毎夜見月
35
さやかなる 月をのみやは ながめつる くもりし夜はも またれしものを
七夕後朝
36 まつほどの ひさしからずは たなばたの けさのわかれは なげかざらまし
八月十五日に、大学頭義忠にさそはれて、遍照寺にまかりて、
池上の月といふ題を
37
あかなくに あまつそらなる 月かげを いけのし○に うつしてぞみる
八月十五夜、右大弁家、月似昼題を
38
秋の夜の そらにくまなき 月かげは なげきやすらん かづらきの神
殿上人、よふけてにはかにしらかはへなんいくとて、くるまよせて
さそふにまかりて、しらかはの秋月といふだいを
39
くる人に いくたびあひぬ しらかはの わたりにすめる 秋の夜の月
七月十二日に、宮の前栽ほりに、花契千秋といふ題を
40
あきごとに はなを宮こに ほりうゑて けふぞちとせの はじめなりける
聞鹿声
41
秋ごとに つまこひわびて なくしかは きりたつ山や ふしうかるらん
聞擣衣
42 あきかぜに こゑうちそふる からころも たがさと人と しらずもあるかな
【校異】
●月のたつ(島・類)……月のくる(東)
●まつへき(島・類)……またまし(東)
●かとたのいねも(島・山・三・御・清・東)……かとたのいなは(類)、かとたのいなは【ねはイ】(仲)
●秋のはつかぜ(島・類)……けさの初風(東)
●はつ秋の(島・類)……はつかせの(東)
●月をのみやは(類)……月のみやは(島)
●(改)いけのし○【水歟】(類)……いけの○○(島)
●(改)右大弁(類)……権大弁(島)
●前栽ほりに(島・山・三・御・清)……前栽ほとりに(類)、前栽ほと【衍歟】りに(仲)
●さと人としらす(島・類)……さと人ゝしらす(三)、さと人【と】しらす(山)
【通釈】
秋
中逢秋
32
秋風はまだ夏のままで、吹いたことだ。月の立つことも、
どうして待たねばならないのだろう。
山家の早秋
33
立秋がくると、門の前にある田の稲穂もしなやかになびき、
清新な音を聞かせてくれる、秋の初風よ。
早秋の月
34
初秋の空までもさわやかになる月の光は、人の心もいや澄んでくることだ。
毎夜見月
35 澄みきった月ばかりを眺めていたことだろうか、いや、
曇っていた夜には、月の出るのが待たれたことだ。
七夕後朝
36 これから一年、待っている間が長いのでなかったら、
どうして七夕の翌朝の別れを嘆くことがあるだろうか。
八月十五日に大学頭義忠に誘われて遍照寺に行って、
池上の月という題で詠んだ歌
37
まだ名残惜しいので、大空にある月の姿を池の清水に映して見ることだ。
八月十五夜、右大弁家にて、月、昼に似たりという題で詠んだ歌
38
秋の夜の空に隈もなく出ている月の光には、葛城の神も自分の姿を
見られてしまうというので、嘆いていることだろうか。
殿上人が、夜が更けてから白河へ行くというので、車を寄せて誘うので
同行して、白河の秋月という題で詠んだ歌
39
訪ねてくる人に、幾度逢ったのだろうか。白河のあたりに住んでいる、
この澄んだ秋の夜の月は。
七月十二日に、宮の前栽掘りに花契千秋という題で詠んだ歌
40
毎年、秋が来ると野の花を掘っては都に移植することで、今日は
めでたい世が千年と続く、その初めとなったことだ。
鹿の声を聞く
41 秋がくるたびに妻を恋い慕って鳴く鹿は、霧の立ち上る山では
寝るのが嫌だと思っているのだろうか。
擣衣を聞く
42
衣を砧で打つ音は秋風の音に添い加わって、どこの里人の出す音か、
わからなくなることだ。
【語釈】
●月のたつ……立秋がきて、秋がくる。
●かどたのいね……門の前のあたりの田に生える稲穂。
●うちなびき……しなやかに靡く様子。
●おとめづらしき……音も清新な。
●秋のはつかぜ……立秋になって、初めて吹く風。
●はつ秋……立秋。
●大学頭……大学寮において、教官ではなく、学生の試験(寮試、年末に行う入寮試験)および釈奠(2月と8月の上丁の日、孔子、顔回などを祀る儀)のことを司った。勧学田を置き、菜料・灯油料(学問料・給料ともいい、奨学金のこと。給費された学生のことを給料と称することもあった)を学生に与えて学費の援助を行う。大学頭の上には、親王や大臣が大学別当を兼帯するのが一般であったが、実務上は頭が事務官長的な役割を担っていたと思われる。
●義忠……藤原義忠(のりただ)。「和歌六人党をめぐる人々」参照。
●遍照寺……広沢山遍照寺。広沢の池の南、京都市右京区嵯峨広沢西裏町にある真言宗御室派の寺。もとは広沢の池の北西に位置する朝原山の麓にあったと言われる。花山天皇の勅願により、永祚元(989)年10月建立。仁和寺別当、東寺長者であった寛朝を開基とする。
●あかなくに……「なく」は打ち消しの助動詞「ず」の連体形「ぬ」+形式名詞「あく」。まだ名残惜しいのに。まだ心ゆくまで見ていないのに。
●右大弁……底本では権大弁だが、権(左右)大弁は所見になく、類従本から校訂し右大弁とする。頼実在世中の右大弁は以下の通り。源経頼は老齢に過ぎるので除外すると、経輔か資通となるが、後の51番歌・73番歌・84番歌から考慮すると、源資通が相応しいと思われる。
長元2(1029)年1月24日〜 源経頼 長暦3(1039)年8月28日、63歳で没
長暦2(1038)年6月26日〜 藤原経輔 藤原隆家男
長暦3(1039)年12月16日〜寛徳2(1045)年 源資通 源済政男
右大弁について:宮中の太政官は扱う業務が繁多であったため、官内には少納言、左弁官、右弁官の三局があって政務を分担していた。少納言局では詔勅・宣旨などの清書、恒例・臨時の儀式、除目、叙位のことなどを司った。左右弁官局は諸官省・諸国より申し出のあった庶務を弁理、納言に上申、宣旨、官符(太政官より令達する書付)、官牒(太政官より他の役所に照会する書付)を作成、太政官内のすべての文書を扱う。左弁官局の管轄は中務・式部・治部・民部の各省、右弁官局の管轄は兵部・刑部・大蔵・宮内の各省であった。その右弁官局に属する役職の一つが右大弁。庶事を上より受けて下につけ、太政官内のことを糺し判じ、被管の諸司の宿直を監する。作文に長じた者が任ぜられ、参議で兼帯する者もあった。事務室は太政官内、朝所の北にあって、弁官曹司と呼ばれた。
●くまなき月かげ……月の光が明るく、暗いところがない。
●かづらきの神……奈良県葛城山に住むという一言主神(ヒトコトヌシノカミ)。
葛城は現在の奈良県大和高田市・御所市・五條市の西、和歌山県・大阪府の県境に連なる葛城山脈の主峰、金峰山と葛城山(奈良県葛城郡と大阪府南河内郡との間にある山。修験道の霊場)を指すらしい。
役行者は大和国葛城の郡に住んでいたが、修行の効果あって、孔雀王の呪法を修得、奇異の験術をマスターして鬼神を自由に操っていた。あるとき、鬼神に葛城山から吉野金峰山の間に岩橋を掛けよと命じたが、多くの鬼神が従ったにもかかわらず、一言主神は容貌の醜いのを恥じて、昼は働かなかったので、行者は怒って一言主神を縛り上げ、谷底に落としたので橋は完成しなかったという。転じて、恋や物事の成就しないこと、醜い顔を見られたくないときに引き合いに出されることになった。
●殿上人……勅許により、清涼殿の殿上の間に上ることを許された者の称。雲客。雲の上人。対語は地下人。
●しらかは……白河・白川。2番歌参照。
●わたりに……辺りに。辺りに、付近。
●すめる……「住める」と「澄める」を掛ける。
●宮の前栽ほり……「宮」は藤原頼通女、四条宮寛子か。前栽掘りは前栽
●千秋……「千秋万歳」などと使うように、めでたい世の幾千年、幾万年も続くことをたとえる。
●ほりうゑて……花を野辺などから採取してきて、宮の庭に移植して。31番歌にも同じ語句がみえる。
●ふしうかるらん……臥し憂かるらん。寝るのが嫌だと思っているだろうか。
●擣衣……砧(布地の艶を出したり、柔らかくしたりするために布を打つ、木または石の台。)で衣を打つこと。冬支度のため、多く秋に行われた。
●からころも……唐衣、または韓衣。朝鮮半島から入ってきた衣のことか。万葉時代にはすでに立田山に掛かる枕詞となっていたが、平安時代に入ってからは立田山→発つ、着→来、袂、袖、返す、帰すといった衣に縁のある言葉を導く衣の美称のようになった。
●うちそひて……付き添う。加わる。
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