事跡:
寛弘5(1008)年、出生。
治安2(1022)年、父公業、甲斐守
万寿4(1027)年ごろ、蔵人所雑色
長元4(1031)年1月11日、 六位蔵人
長元5(1032)年、前式部少丞
長元6(1033)年12月21日、左近少将資房と争い除籍
長暦元(1037)年、兵部少輔か
長暦2(1038)年9月13日夜、 『権大納言源師房家歌合』出詠
長久2(1041)年4月7日、『権大納言源師房家歌合』出詠
長久3(1042)年閏9月晦日、高陽院で開催された歌合に参加
永承2(1047)年ごろ、『左京大夫道雅障子絵合』に参加
永承5(1050)年6月5日、『祐子内親王家歌合』に出詠
天喜2(1054)年3月、筑前守見任・正五位下
延久元(1068)年、後三条天皇大嘗会献歌
延久3(1071)年3月12日、 頼通八十賀に出詠
延久4(1072)年3月26日、後三条天皇祇園社行幸に出詠
承暦2(1078)年1月7日、女婿通宗と歌を贈答、まもなく没か
儒吏の家に生まれるも、官吏としての道を歩み、大和、筑前守などを歴任、正五位下に至る。後三条天皇の大嘗会和歌の作者。
従兄の家経を通じて、六人党の範永らと知り合ったとみられる。また能因、相模らとも親交を結んだ。その歌は平明すぎ、やや情趣に乏しい。『経衡十巻抄』という打聞を撰んだらしいが、散佚。家集に『経衡集』がある。後拾遺集初出。
家集:
『経衡集』は現在7本の伝本が知られているが、すべて同系統とみられる。歌数239首で、経衡晩年の自撰家集。前半に歌合、歌会、大嘗会の歌などの公的作品を、後半には贈答歌などを中心とした私的な作品を収めている。私家集大成2所収。
逸話:『袋草紙』
「道雅三位は、帥大臣殿の息なり。八条の山庄の障子の絵に、歌合に読ましめて撰びて書かしむ。作者は、兼房・家経・範永・経衡・頼家等なり。経衡後生の為に入り難きの由を存ず。入らざること甚だもって遺恨なり。上臈を入るるなり。何事かこれ有らんや。家主に名籍を献らんと欲して、和歌を献ずるの日、名籍を懐にして参向す。寝殿において家経と撰ず。経衡窃かに寄りてこれを聞くに、家主云はく、「秀歌何れを入るべきや」と。家経云はく、「左右なく『われよりさきに人来ざりけり』」と云々。これ経衡の歌なりこれを聞きて、名籍を取り出さずして窃かに帰ると云々。道を執するは興有る事なり。」
逸話:『袋草紙』
「江記に云はく、「往年六人党あり。範永・棟仲・頼実・兼長・経衡・頼家等なり。頼家に至りては、かの党頗るこれを思ひ低(かたぶ)く。範永曰はく、「兼長は常に佳境に入るの疑ひ有り」。これ経衡の怒る所なり」。また云はく、「俊兼の曰はく、「頼家またこの由を称す。為仲、後年奥州より歌を頼家の許に送る。『歌の心を遺す人は君と我なり』と云々。頼家怒りて曰はく、『為仲は当初(そのかみ)その六人に入らず。君と我と生き遺るの由を称せしむるは、安からざる事なり』」」と云々。」
逸話:『袋草紙』
「高倉一宮歌合に、歌人は、左、大弐三位・江侍従・伊勢大輔・出羽弁・小弁・相模なり。右、資業・兼房・家経・範永・能因の五人なり。今一人の所を兼長・経衡これを競望す。而して両人入るれば、女房一人不足なり。また一人を抽きて入るれば、同じき者より怨望さる。また共に入れざれば、女房一人除くべし。宇治殿思し食し煩ひて、ここに堀川右府、加賀左衛門をもって枉げて吹挙す。許容なし。これいまだ至らざるの故か。仍りて兼長・経衡等をもって試み有り。当座に題を賜ひて云はく、「水辺の款冬(やまぶき)」。兼長の歌に云はく、
いかなれば岸にやへさく山吹のひとへに色のそこにみゆらん
経衡の歌に云はく、
池水にさきかかりたる山吹を底にしづめる枝とみるかな
右府判じて云はく、「持なり」と。これ両人を入れて、女房不足の所に左衛門を入れんの志と云々。満座兼長の勝と思へり。然る間に兼長服暇に成りて、遂に経衡を入る。昔の事は能く清撰有るか。」
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